愛してるをそのまま

、」

そう名を呼べば彼女は何かをしていても振り返るか、もしくは返事を必ずする。裁縫をしていても、菜をしていてもだ。

「なあに、珀明」

緊張感のない顔が、珀明は好きだった。邸に帰ってくればこの顔で出迎えられて、心休まるのを確かに毎回実感している。それを本人に言う気はさらさらないが。
いつもいつも、緊張感がない。自分以外の男と結婚しようか考えているときも、あまりいつもと変わらない普通の顔でいたのを見て、正直かなり焦った記憶もある。緊張感がなさすぎて怒りたくなる。それでもそんな彼女の笑った顔が好きだった。
だが多分、今のこの感情は、好きと言うよりも。

「……」
「…何?どうしたの?」

何かあった?寧ろ私が何かした?ちょっとだけ疑問の色を交えた顔をしながら、はそう首を傾け問いかける。相変わらず緊張感はないが。毎度毎度、締まりのない顔だと珀明は思う。
珀明は芸才がもの凄い優れているわけではないが、そこら辺の一般貴族よりは才能も資質もあると自覚している。それは詩を作るうえでもだ。
けれども珀明はに詩を作って贈ろうと思ったことはなかった。との関係は、そういうものではない気がするからだ。正直なことを言うと、もの凄い恥ずかしいというのもある。自分の持てる才能全てを使って最高の詩をに贈ってやっても良いのだが、それは何故だかとの仲を築く上で少し違う気がした。まあ、そういうものがなくてもとの仲は順風満帆なのだが。…だから要らないと思っているのかもしれない。

「い、一年前を覚えているか」
「え、そりゃあ。…結婚した日くらい、覚えてるわよ」
「そ、そうか」
「?」

覚えていながらいつもと変わらない。らしいと言えばらしいが、珀明は自分ばっかり彼女を好いているような感覚になってくる。…まあ、の態度や言葉を見ていれば別段そこまでではないことは、解るのだけれど。
一年前、言おうと思いつつ言えなかった一言を、珀明は今日伝えたいと、そう思っていた。

「…後悔、してないか」
「ええー、そういうこと聞くの?」
「んなっ、良いから質問に答えろ!!」
「後悔させないって、言ったくせに」

七光りの息子よりも幸せにしてやると言ったくせに、目の前の旦那は結婚一年経ったというのにいきなり弱気だ。

「後悔してたら、珀明と一緒の室でなんか寝ません」
「……」

もう少し可愛らしい返答が欲しかったかもしれない。いや、嬉しいは嬉しいのだが。何だかちょっと生々しい答えを貰ってしまって珀明はちょっとだけ恥ずかしくなった。何で本当にこの女はこうなのだろうか。

「何よー、珀明は後悔してるの?」
「いいや」

ちょっとだけ怒った顔で、がそう聞くから即答した。そんなこと、ありえるはずもない。
ただ、後悔しているとしたら。

「…後悔するのは、一年前の自分の行動だ」
「ええ?…結婚したこと?」
「違う」

さっき後悔しているのかと聞かれてきっぱり否と言ったのにこの妻は一体何を聞いていたんだ。珀明は少しだけ呆れて怒りたくなったが、今はそれ以上に去年できなかった行動をしようという思いでいっぱいだった。
刺繍をしていた途中の手を、珀明はおもむろに持ち上げる。の手は自分よりも小さくて、細い。当たり前だった。
は椅子に座っていて、自分は立っている。その状態での左手を持ち上げて、自分は少しだけ腰を曲げて前かがみになった。多分、こんなにも恥ずかしいことはそうそうできない。こういう日ではないと、できない。珀明は自分の性格も考え方も解っているから、去年言いたかったくせに言わなかったことをとてつもなく後悔していた。本当は、去年の今日、結婚した日に言うのが一番良かったのに。

「結婚してほしいと、言ったのに…この言葉だけは、言わなかったから」
「…?何、を?」

不思議な顔をしているの目を見ながら、珀明はの左手を口元まで上げた。本当に軽く、口付ける。口を手から離したら、言葉の続きを紡いだ。

「愛してる」



のことは小さい頃から好いていた。でも、今のこの気持ちはそんな子どもでも使える言葉ではなく。
珀明は芸才もある。詩の一つや二つ、幾らでも作ってに贈ることができる。彼女が喜ぶか恥ずかしがるかは、別として。
何度も何度も考えた。堅苦しい言葉も、回りくどい言い回しも、それこそ甘ったるい詩の一つでも。何度も何度も考えて、結局言いたいことも、この気持ちを表すのも、たったの一言だった。ただただ簡素で解りやすい、その一言だけ。
一年前、と結婚したときに言えなかった、その一言。

「は、…え!?」
「去年は、せっかくの機会なのに言えなかったからな」
「え、ぇ……えっ!?」
「…うるさいぞお前」
「え、え、でも、いや、あの、…あ、の」
「何だ」

尚もの左手は珀明の手に納まっており、珀明の口元も近いままだった。この体勢自体かなり恥ずかしいのに、いきなりこの幼馴染の旦那が爆弾発言を投げてきた。
もの凄いいきなりでの頭の中はそれこそ暴風のように荒れ狂っているのに、妙に冷静な部分が、ただただ熱を上げている。
それを表すなら、やはり珀明と同じように一言だった。

「…あの、ぁの、…嬉しい…」

珍しく顔から耳まで真っ赤にしているを見て、珀明は気づいたらの身体を抱きしめていた。



10/11/11
実は短編の中では珀明、好きすら言ってないんですけどねー!
珀明は言わないだろうなあと思ってたんですが、やっぱり言わないままは後悔したみたいです。
しかし一足跳んだ気がしなくもない。結婚申し込んだときに好きすら言ってないのにねー。
これで結婚してるんだぜ…。
お題:LUCY28
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