もしも何かあっても

もしも何かがあったとき。
それは「もしも」でしかないけれど、ただの仮定でしかないけれど。だけれども、もしもそのもしもが、仮に、本当になったら。
現実に、そのもしもが起こってしまったら。

そうしたら。



「…どういうこと?」
「もしもの話だ」
「話が見えないのだけれど」

もしも何かあったときは、私財全部持って郷里に帰れ、なんて。

「貴方の財産はほとんどお酒のためにつぎ込まれてるのに」
「……」

小さく飛翔は呻いた。痛いところを付いてくる。
だが、かなりの額を自分の酒代につぎ込んでいるがこの女の暫くの生活を保障するだけの金額は残している。それは酒のために見境のない飛翔でも解っている。もそんな愚妻でもないし、飛翔だってそんなことが解らない夫でもない。ただ酒につぎ込んでいる額がひたすら大きなだけで。

「お前が実家に帰るまでの費用と、暫くの生活費くらいは残ってるだろう」
「………」

数拍は黙り込んだ。飛翔としては、できれば何も聞かずに頷いてほしかった。理由を話すのは少々込み入ってるし、それをに話して良いわけでもない。そもそも何処から話して良いのやら。
もしも今の朝廷が、10年前を繰り返したら。
そうしたら。

「王都で何かあったら、私一人だけで逃げろと、そう言うの?」
「…そうだ」

聡い女だと、思う。口喧嘩をするとあまり勝てないからそういう部分はそんなに好きではなかったのだけれど、今この場ではそれが良いことだと思った。
自分のこの気持ちに気付いて、解ったと頷いてくれれば、それで飛翔は安心して朝廷で仕事ができる。
…ぎりぎりまでは、この邸で共に過ごさせてしまうけれど。今直ぐ送り出たほうが良いに決まってるのに、それが飛翔にはできなかった。したくなかった。けれども一緒にずっとこの王都で暮らしていくのは嫌だった。巻き込むのだけは、絶対に。
被害を受ける前に実家に送りだせる手配だけはしておいて、せめてぎりぎりまでは目の届く範囲で過ごさせて。…自己満足の行為ばかりだ。だから陽玉はいつもいつも自分とは別れたほうが良いと言う。その通りだと思った。自分勝手にこの妻を振り回す。最低だった。
でも、傷つくのだけは見たくなかった。だから、実家に戻れるようにだけは、何が何でも実行させる。

蝗害の収束を待っても良かったが、の実家は蝗害とは関係がない。王都に遠いわけでもないが王都で問題が起きた場合、直撃は免れる。蝗害の被害が先に王都へ来た場合も困るが、そのときは即日を送り出す。その後、最悪の事態が起きる前に。
蝗害の被害と、…王位争いが連立した場合。

(そうなったときが、一番やべえ)

食べるものもなく、王位争いの火が城下にも関係なく押し寄せる。10年前よりも酷くなるのが目に見える。誰がどう贔屓目に見てもそれは明らかだ。もしも蝗害の被害が少なかったとしても、今の今上陛下の状況下では酷くならない方がおかしい。この朝廷の嫌な雰囲気が、…遠くないうちに爆発するのは、目に見えている。
10年前にも、それを飛翔は朝廷から、見ていたから。

「…理由は聞いても?」
「言えねえ」
「…それで私が、妻の私が、納得して頷くとでも?」

わざわざ妻の部分を強調して言ってきた。実は婚姻関係を持ちかけたのはな分、夫婦仲に関しては強く出てくることが多い。喧嘩しても絶対別れてやらないと、邸中に聞こえるよな大きな声で叫んだこともある。喧嘩してたのになし崩しになったのは言うまでもない。その後久しぶりに食事に連れ出して、欲しがってた紅を買ったことも、飛翔はきちんと覚えている。それなりに嬉しかった記憶も、ある。
自分の隣に置いておくような女、多分この女以外もう出てこないのだろうと、何となくそう思っている。
だから。

「今回だけは何がなんでも頷いてもらう。まあ勝手に送り出すことになるがな」
「ちょっと」
「…今回だけは、頼む」
「………」

視線は合わしていなかった。飛翔は杯を見つめたままで話をしている。杯を持ってはいるが今日は進みが遅いし、話を始めてからは全く手をつけていないのには気付いていた。それだけで朝廷で何か起こることが手に取るように解る。…蝗害の件や各州都の災害の件では、なさそうだ。それでここから出てけというのはおかしい。蝗害がこちらに来るとしても逆に高位官吏である飛翔の元を離れるほうが危ない。
朝廷の話にはも口が出せない。何があってもこの男の元から離れる気なんてなかったのに、この男が離れろと言う。そんなこと、どんだけ喧嘩しても、どんなことがあっても、言われたことなんてなかったというのに。

「…嫌よ。絶対嫌」
「じゃあ睡眠薬でも盛って勝手に送り出す」
「貴方私と一緒に何年いると思ってるの?そんなことされても、戻ってくるに決まってるでしょう」

悲しそうな顔をしながら、は自信満々にそう言う。そこまでして離したいらしい。危険だからだろうけれど、危険な場所に居る旦那を放っておいて何処かに行けるような女ではなかった。何せ、自分から好いて結婚を催促した男だ。この男には自分以外の女が居るとも思えない。そんな男の傍を、離れる理由なんてあるはずないのに。

「じゃあ俺の実家だな。親父に何が何でも留めて置かせる」
「駄目よ。お養父様は、私には甘いから」
「………」

そうだった、と飛翔は動きを止めた。この流れだったら納得してくれるかと思ったけれど駄目な気がしてきた。うちの嫁は見た目に反してかなり強情だ。飛翔自身譲れないものに関しては一本筋を通して強情を貫き遠すが、はこうと決めたら何が何でもそれを押し通す。夕食だの服だの、自分が言って聞いた試しがない。だからこそ結構放っておいたりもするのだが、侍郎の欧陽玉からしたらソレが目に付くらしい。
…この状況下でを離すとまた陽玉に何か言われそうだった。何とも自分の周りは面倒くさいのばかりだ。

「お前本当俺の言うこと聞かねえな」
「聞いてるじゃないのよ。今晩の夕食とか、酌してほしいとか」
「…」

その程度しか聞かないのかよ。思わず半目で睨む。この嫁には自分の眼力なんぞ微塵も効かないのだけれど。

「…お酌する人、私しか居ないんだから」

俯いてそう一言、ぽつりとはこぼした。いつもよりかは小さな声。隣に居た飛翔には、聞こえたけれど。
…ああ、これだからこの嫁は。もう随分長いこと一緒に居るというのに、未だこんな気持ちになるだなんて。
飛翔は杯を盆に置いた。中身が減っていないことに今ようやく気付く。深く深く、ため息をついた。

「…後悔したって俺は何にも言えないしできねーぞ」
「私が後悔するとしたら貴方と結婚したことだわ」
「お前…」

自分から言ってきたくせに。そう言おうとしたが先にが口を開いた。

「もしも後悔するときは、それくらいだわ」
「……」

何でこの女は自分を喜ばすことが上手いのだろうか。
もしもの話は仮定でしかなく、良いことも悪いことも、どこまで考えても「もしも」の話でしかない。尚書としての管飛翔はそういう仮定の話はあまりしないし考えない。最善の話を考えていくのが一番良いからだ。最悪だのなんだのも考えるのは考えるが、その中でも常により良い選択をしていかなければ尚書は請け負えない。
それと同時に自分は本当にこの嫁に弱いなあと思った。結局強く言えずにもう良いから傍に置いておこうと思ってしまっている。
…弱弱しく呟く嫁の姿を見てられないとか、そういうことでは断じてないはずだ。

「…まだ王都から出て行けって言うの?」

言わないでしょ?ほぼそう断言できそうな声音だった。畜生女に甘いわけではないのに、この嫁には頭が上がらない。寧ろほいほいと色々受け入れてしまう。しかも自分の心情変化を理解されている。何だか少しだけ恥ずかしいのはどうしてだ。
その恥ずかしさを誤魔化すように、飛翔は聞こえるように舌打ちをした。そうして飲まずにいたままの酒に口を付ける。

「…本当に後悔したって知らねえからな」
「しないわよ」

そうして飛翔が飲みきった杯には次の酒を注いだ。
自分よりも随分と華奢なのに、誰よりも頼もしく笑って隣に居る嫁は、強いと飛翔は思う。結局手放せずに隣に置きっぱなしの自分が少々情けないような気もしなくはないが、それでもやはり居てくれるのは嬉しいと思える。
何かがあったときは、何が何でも危険な場所からは遠ざけたいとは思っている。その気持ちは変わらない。
けれども、やはり夫婦なのだから、できる限り傍に居ることができれば良いと、飛翔は思っていた。



12/01/01
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