ありふれた愛で満たして

「もう堪忍袋の緒が切れましたっ!婚約破棄です!破棄!」

皇子竜の邸で女性の声が響いた。婚約者のは、涙を目尻に溜め、怒りのせいか頬が赤かった。いつもは笑顔を作るその口は、今は怒鳴り声を上げている。
のためにと買ってきた簪は、本人の手には渡らず子竜の手の中に納まっていた。

「こんな、仕事ばかりでこっちには構ってくれないし、何をしているのか聞いたら殿方たちとの鍛錬だの修練だの今日はこんなしごきがあっただの至極どうでも良いことばかりで!しかも逢えなくなったら詫びなのか機嫌取りなのか宝石だの簪だの紅だのと、こっちのことはお構いなしに贈ってきたりして!剣と結婚すれば良いではないですか!大将軍の方たちと男色にでもなれば良いではないですか!」

羽林軍の武官たちが聞いたら絶叫しそうなことを大声でのたまった。死んでも嫌だ。子竜は何故か冷静にそんなことを思った。
繋がるなら冷たい剣でも自分よりも強くてゴツイ男よりも、ただ愛しいとが良い。
…そうは思っていても子竜はそういう歯の浮くような言葉は紡げなかった。紡げばは機嫌を直し、これからの関係も良好になるのだろうとは、解っているけれど言えなかった。何故って恥ずかしいからだ。思ってることをきちんと言葉にするのは、かなり恥ずかしいし難しい。そうして相手の反応が怖い。
そんな小心者の行動をとっていたらコレだ。

「何なんですか女は待っていてくれるものだとでも!?犬とは違うんですよ何処のお涙頂戴な王道芝居ですか!?ずっと待ってられるのは犬くらいですわよ!装飾品程度で結婚もしていないのにずっと待っていてくれるとでも本当に思っていたんですか!?馬鹿ですか!?頭悪いんじゃないですか!?それとも女性に関してお花畑なんじゃないですか!?」

流石にそこまで言われるとどうしたら良いのか益々解らなくなってくる。生きてきた経験上、ただ怒りに任せて感情的に怒鳴っているのは解るが、その後の対応をどうすれば良いのか今の子竜は考えられなかった。コレが同僚だったらただ喚かせておいても構わないのだが、相手はだ。婚約者で大事なだ。勢いで本当に婚約破棄をされたら堪ったものではない。
とうとうの目尻から涙が零れるのを見て、心の中が更にざわついたのを子竜は確かに感じた。

「っ、こ、婚約してもう随分経つのに、結婚の話なんて全く出なくて、も、物ばかり増えていくのに、子竜様とは、逢えない、しっ」

次から次へとの頬が濡れていくのを、呆然としながら見ていた。やはり彼女の涙もしょっぱいのだろうか。そんな変なことを何故だか考える。
婚約しても、との仲は清いままだ。手もろくに繋いでいないし、そもそも逢瀬の回数自体かなり少ない。街に出て逢うということなんて、したことがない。それは自分の仕事や鍛錬の忙しさのせいもあるが、自分の気持ちを遠ざけていたせいでもある。

「…は、本当に私でも良いんですか?」
「な、にがっ、」
「婚約は、家同士のものでしたでしょう。仰るとおり私は仕事ばかりでにずっとかかりっきりということは、できません。寂しい思いなんて、結婚したら余計にさせます」

それでも良いから彼女はこうやって婚約を続けてくれているのだろうと、解ってはいた。
解っていたから、子竜も自分から離れるようなことは言わなかった。家同士の婚約でも、子竜はを好いていたからだ。婚約する前から知り合いだった。女性として好いていた。周りに他の女性がいなかったせいもあるけれど、それでもが良いと思っていた。そんな中でと婚約できて、子竜は本当に嬉しかったし幸せだった。けれどもとの逢瀬の回数は増えないし、文を交わすこともあまりない。どんな話をすれば良いのかも解らず、また婚約する前にどんな話をしていたのかももう思い出せない。どんな平常心で、昔は接していただろうか。
仕事のせいだったけれど、それ以上に子竜の考えのせいでもあった。羽林軍将軍の自分は、もしかしたらいつか命を落とすことが、あるから。
王と共に王都から落ちたときも、生き残るつもりではいたが死ぬ覚悟もしていた。羽林軍というのは、近衛というのは、そういうものだと思っている。いつ王のために死んでも良いと覚悟している。
…まあ、今上陛下の劉輝様は、自分たちに生き残るように命令した。だからこそ、最後の最期までついていこうと子竜はひそかに思っている。
その自分の思いを貫き通そうとすると、を幸せにできるかどうかなんて考えられなかった。多分、人並みの幸せも与えてあげられない。
だからこそ婚約しても結婚まで話を進めなかった。結婚したら、取り返しが付かなくなるかもしれないからだ。
婚約を解消するくらいなら他の話でもよく聞く。けれども結婚を取り消しにするのは、に傷がつく。
とは離れたくはなかった。けれども、結婚までしたらどこまでもを不幸にするような気がして踏み込めなかった。結局いつ死ぬかも解らないこの仕事で、を幸せにはしてあげられないと、思っていたからだ。
ろくに逢瀬も重ねられず、かといって自分から離れるだけの度胸もない。
だから、が自分から離れられるような隙間だけ残しておいた。それでも離れていかない彼女が、誰よりも堪らなく愛おしかった。

「そんなこと、知ってます。で、でも、結婚したら子竜様を、出迎えられます」

そう言われて子竜は瞠目した。一瞬で頬に熱が集まったのが解る。との結婚が思ってる以上に甘美なものに聞こえた。
…確かに、結婚したら毎回のようにに出迎えてもらえるのかと、ようやくそこで子竜は気づく。
は今まで逢えなかった分、怒涛のように喋った。

「しりゅ、子竜様、が、忙しくて結婚できないなら、別に、それでも良いんです。でも、…でも、こんな、物で釣るような真似は、とても寂しいし悲しい、です。子竜様が、婚約を破棄しないだけで、嬉しいのに、でも、っ結婚も、せずに、ずっと婚約のままも、辛い、です」

途切れ途切れに、…本人も何を言っているのか解っているのか少々微妙だが、それでも思いを吐露していった。が、本音を漏らしているのが、何故だか子竜の胸を締め付けた。

「結婚したら、にもっと寂しい思いをさせます。一般的な、幸せをあげることも、多分できません」
「知りません、知りませんそんなこと。赤の他人の普通の幸せなんて、私は、知りません。言葉も、逢瀬も、確約もないのに、どうしてこれ以上、寂しい思いができるんですか。私は、…私は、ただ、子竜様と一緒に、いたいの、に」

婚約を申し込まれただけで、とても嬉しかったのに。
は尚も途切れ途切れに呟いた。

「逢えないからと、物を贈られるのなんて、もう嬉しくありません。文がなくても、構いません。け、結婚したくないなら、それも、それでも、構いません。ただ、…ただ、わた、私、は、一言でも、子竜様から、言葉を貰えたら、それで、幸せなのに、」

物で釣られるような、そんな関係が嫌だった。簪も紅も、着物も何も要らない。ただ、子竜から一言だけでも貰えれば、それだけでずっと待ち続けられるのに。
それが嘘でも、その場凌ぎの偽りでも、それでも、ただ子竜からの口で、子竜からの言葉を貰えれば、それで幾らでも我慢できるのに。

「あ、ありきたりな、普通の、言葉でも、良いんです。たった一言だけで、良いんです。言葉が、言えないのなら、せめて、…せめて、一回で良いから、抱いて、ください、」

ひゅ、と子竜は自分の喉が鳴ったのが解った。けれどもの言葉の理解は遅れる。
自分よりも幾分小さい細い手では顔を全部覆って、それでも何とか言葉を紡いで、そんなことを、言う。緊張から来ているのか子竜の口の中はカラカラだった。だからか口が容易に開かないような気がした。
箍が外れそうになるとは、こういうことかと、やはり妙に冷静に子竜は思った。

、…は、本当に、それでも良いんですか?」
「…っ、」

自分から良いと言っていたのに、子竜からそうやって聞かれると辛そうに顔を歪める。大きな目は涙で溢れて、収まりきらずに零れている。眉尻は下がって口もへの字だ。
女だろうと泣き顔を可愛いと思ったことはあまりない。が、の場合は愛しいと思えた。多分、自分のことで泣いているからだ。

「正直なことを言えば、私は良いと言われればいつでも貴方を抱きたいと思っていますよ」
「…ぇ、」
「これでも男なもので」
「そん、…え?」
「…ですが、流石にそんなことしようとは思いませんし」

わけが解らずは話に付いていけない顔をしていた。それもまた愛らしいなあと子竜は思う。恋は盲目とはまた違うように思う。見えているけれど全てが愛しく思える。
自分としては彼女を縛っておきたくなかった。多分不幸にすることが目に見えているからだ。実際今回の今上陛下の王都落ちでは連絡もせず姿を消した。だからこそ彼女もこうやって怒っているのだけれど。
繋ぎとめておきたいから、物を贈っていた。言葉すら交わさずに。
それに気付かされてしまった。
しかもの気持ちまで聞いてしまった。ここまで来て流石に行動しないほど男が廃れているわけではない。

、私は貴方が嫌だと言わない限りこの関係を崩すことはしません。でも貴方が良いと言うのなら、私は、貴方と共に在りたいと思う」

ずっと想っていたけれど言葉にしたことはなかった。がそれで安心してくれるなら、幾らでも贈っても良いと今なら思える。
が望めば幾らでも装飾品は買ってあげるつもりだし、先ほどのように抱いてほしいと言えば意識がなくなるくらい独占するだろう。言葉が欲しいのなら、それも添えて。
も自分を想ってくれているのなら、望むもの全て与えても構わない。自分を欲してくれるなら、それでも良い。

が更に泣くのを見て、子竜は自分の指での顔を拭った。
昔から、笑った顔の方が好きだった。泣いている顔が嫌いなわけでも可愛くないわけでもないが、笑った表情のほうが子竜は好みだった。自分が何故だか酷く安心するからだ。いつもの表情からにこりと笑うその変化が、堪らなく愛おしかった。
拭った指で、の顔の輪郭をなぞる。止まらなくなって手のひらでの顔を包んだ。その手の甲に、の細い手が重なる。
守ってやりたくなる気持ちもあれば、突き放して自分を何処までも追ってほしいという妙な考えもある。その結果が今までの対応だったわけだが。
それでもやはりの笑った顔が好きなようだ。今もどうしたら泣き止んで笑ってくれるかを考えているから。

、愛しています」

泣き止ませたいと思って言ったというのに、そのときのの顔はあまり見ていなかった。直ぐに自分が近づいて、距離がなくなったから。
次の日トントン拍子に結婚までの話を進めて、が嬉しそうに目を伏せて笑った顔が見れたからそれで良いと子竜は思った。



12/12/30
Page Top