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神代一人は眠りが浅い。
医者として当然だが、気配に敏感でもあるのでKとして生きていくようになってから深く眠ることが減ってしまった。
元々母親が死に、父親が失踪してからあまりきちんと眠れていなかったが、Kと呼ばれるようになってからそれが悪化していた。よくないことだとは解ってはいるものの、眠りがどうしても浅く、どうやっても深く眠ることができなくなっていた。急患が来たらすぐ動けるように気を張っているのだからしょうがないと、自己暗示をかけて生活をしている。別に日常生活に支障を来たすほどの眠れなさではないので、特段困っているわけでもなかった。ただスッキリするほど眠れるということがないので、満足感のある睡眠を得られているかと問われれば頷くことはできない。
医者なのだから、睡眠が浅いのは別に構わないと思っている。だが、何もないときでも熟睡できないのは流石にこれから年数を重ねるごとにきつくはなっていくだろうと、今から少し不安に思っているくらいだった。
睡眠のことを考えていれば、絶対にある女性が脳裏をかすめる。

その人がいるときだけ、リラックスして短時間でも眠れることに気づいたのはここ数年だった。



「痛かったら言ってね~」

街に降りて中村の施術を受ける。
鍼灸師であり、村の人間であり、幼馴染であり、許嫁のような女性だった。いつか彼女と結婚すると思っているが、それがいつになるかは皆目検討もつかない。何せが村に戻ってくる気配がない。時々村には来るが、の両親が遺した家を掃除しに戻ってくるだけである。
自分に会いにきてくれてるわけではない。こうやって、自ら逢いに行くしか顔を見る手段がなかった。
時間を見つけてはストレッチも筋トレもするが、それでも全部をカバーできるわけではないので顔を見るついでにの施術を受ける。
好いた女の手は、いつも温かだった。

「あーあー、首バッキバキ」
「緊急オペが長くてな」
「いつものことだけどこれ寝れてないでしょう。背中荒れてるわけじゃないけど筋肉の張り的に睡眠の質悪すぎ」

首しかまだ鍼を刺していないのに、そう言われる。
一人はこれがいつもの状態なので言われてもあまり解らない。筋肉量も多く男だからか、多少無理をしてもどうにかなってしまうとに言われる。それもそうだろうと納得する。実際どうにかなっているのだから、これでいいだろうとも考えてしまう。患者の思考や目線はこういう感じなのだろうと、自分が患者になると思うので身を引き締めた。

「Kに成り立ての頃はまだ柔らかかったんだけどなー。まだ年ってほどでもないんだからもう少し眠れるといいんだけどねえ」

そうだな、とは返事をするものの、難しいだろうと一人は思う。独りきりで神経をすり減らしている今の状態が、終わる日は自分が死ぬときだろう。
正直な話、が嫁に来てくれれば少しは眠れるようになるとは思うのだが。
思ってもそれを言うことができなかった。彼女には彼女の人生も仕事もあり、今は街で彼女を頼りにしている患者もいるのだ。

「痛い鍼とかない?」
「ああ、大丈夫だ」

お互いの近況を喋りながらあらかた刺し終われば、口数が自ずと減ってくる。こうなると気づいたらいつも一人は眠ってしまっていた。
この自分がだ。
流石に声をかけられたら起きるが、無防備な状態でいつも気づいたら寝ているのである。鍼が刺さっているのにだ。筋肉が緩んでいるからとも言われるが、の傍だからなのが一番大きかった。
試しに他の鍼灸師の施術を受けたこともあるが、こんなにも意識が遠のくことはなかった。
それが解ってから、やはりこの女が隣に来てくれればいいと、一人は願っている。

「はいお終い。お疲れ様でした」
「すまない。助かった」

起き上がれば施術前と身体の状態が違うのが解る。普段から痛みが出ているわけでも、可動域に問題があるわけでもないが、身体の動きが変わったのを実感すれば受けに来て良かったと素直に思う。その気持ちで礼を言えばは「どういたしまして~」と返してくる。自分的にそれなりに気持ちを込めて言っているのに対して、はいつもと変わらない。
昔から、この女は自分に対して態度も言動も変わることがない。
母親が死んだときも、父親が失踪したときも、のままだった。
村井さんが消えたときは流石に気の毒に思ったのかこちらを気遣った顔はしていたが、Kになったときに何も変わらず接してくれたのは彼女だけだ。
彼女だけが、ずっと自分の名前を呼んでくれている。
村から離れても、手の届かない場所に消えるわけでもない。連絡先も知っているし、どこに住んでいるかも解っている。夏と冬には村にも帰ってくる。村に帰ってくれば、きちんと顔を見せてくれる。
それが、どれだけ自分を救ってきたのか、彼女は、微塵も解っていないのだろう。
今もこうやって逢うだけで救われているのに、彼女は昔と変わらず気の抜けた声を出し、笑顔を見せ、そのまま自分と別れて自身の家路に向かうのだ。

「頭の鍼が一番効いた」
「頭皮もガチガチだったからね~」

眠れてないしストレスですな、なんて軽く言われる。しょうがないね~とも続けられて苦笑するしかない。

「お医者さんも看護師さんも患者さんで来るけど、やっぱまあ全員ガチガチなんだよね〜本当お疲れ様ですわ」
も、大変だろう」

医者のような緊急オペがあるわけでもないが、ヒトを相手にしているのだ。自分とは別の大変さがあるはずだ。

「まあ大変は大変だけどさー。うーん、こっちは相性の問題が大きいからなー」

医者でも患者との相性はあるにはあるが、意識のある状態で素肌に触れる分、やはり相性の良し悪しが物を言い、気を許せるかどうかなど大きいらしい。それならば自分はと相性がいいのだろうと納得する。その人と鍼自体の相性も大きく関係すると言われれば確かにと頷く。好みの問題が大きそうだ。痛いのを怖がってる患者なんて相性の悪い施術者だと失神しそうである。

「ていうか目の疲れもすごいよ一人。もうちょっとしっかり休みなね」

お前が来てくれれば、夜ももっと眠れると思うのだが。
そう思ってはいるものの、一人の口からそれが出て来ることはなかった。
実際のところ、が嫁に来てくれたところで急患が消えるわけでもないし、あの村の唯一の医者なのも変わりはしない。往診や検診の量が減るわけでもない。
手術になれば村の人間が助けてくれるが、そうでもないときは自分独りで患者たちに当たるのだ。が来たところで、仕事量は変わらない。
けれども、自分は確実に、夜眠れる時間ができるのだろう。

が村を出て鍼灸の道を歩むときに、一夜だけ共にしたことがある。あのときほど熟睡できたことは、あれ以来一度もなかった。
好いた女が村から出て行くことに憤っていながら、それでもその夜は夢も見ないほど眠りに落ちたのだ。
母が死んだ夢も見ず、父が消えた日のことも見ず、村井さんまでも帰ってこなかった絶望感も見ず、ただただ眠りを享受した夜は、が傍にいたこともあって幸福で得がたいものだった。
またあの熟睡感を得たくて、の施術を受けている。あのときよりも眠りは浅いが、それでも驚くほどしっかりと眠れるのだ。不思議で仕方がなかった。

子どもの頃から、村の人間たちにいつか自分たちが結婚するのだろうと言われて育った。一人もそう思って過ごしていた。村のことも、一族のことも、自分のことも解って生きている。がそれに対して何かを言っていることなんて見たことがなかった。村の人間に言われる度に、「解っている」と返答しているのを何度も見てきた。
女性としてはもう結婚適齢期だろうに、男の影は何も見えない。
いつか、嫁に来てくれるのだろうと、一人はただそれだけの希望でを見ていることしかしていない。
いつか来てくれるだろうと信じているから、下手に踏み込んだりもしていない。けれどもそれだけでは怖くて、こうやって顔を見に来ている。
だが独りきりであの村医者をやっていると全く回数を重ねられないので、年に数回くらいしか逢えない。
逢えない分、早く村に戻ってきてくれればいいのにと、願う。
逢う度に、いつか隣に来てくれれば、それでいいと、思う。
この女の隣に立って、この女の隣で眠り、この女と共に生きていければ、それだけであの村に骨を埋めることなど容易いとすら感じられるのだ。
早く、が嫁に来てくれればいいのにと、一人はまた思う。

「いつも言うけど、お水しっかり摂って早めに寝れたら寝てね」
「……ああ」

この女は少し残酷だな、とすら思ってしまう。早く嫁に来てくれれば、寝たいときに眠れるようになれるだろうに。
次にの顔が見れるのはいつだろうか。まだ分かれてもいないのにそんなことをもう考えてしまっている。次に自分がまた短時間でもきちんと眠れる日が来るのは、いつだろうか。それでもあの村を自分が出ることはないし、医者を辞めることもない。
が来てくれるのを、待つだけだった。

「気をつけて帰ってね~村の皆にもよろしく!」

次に逢ったとき、また眠れていないことを言われるのだろう。もはや様式美のような会話だった。これでも母親と父親が消えてからの眠れなさと比べたら、まだ良いほうなのだが。
眠さがどうにもならなくなったらまた自分からこの治療院に来るのだろう。それ以前にの顔が見たくなったら何とか時間を作って来るかもしれない。が街に就職してからずっとそんなことを繰り返している。
今日の夜は、の手の温かさと、変わらない表情を想いながら、眠りに就く。いつか彼女を腕に抱きながら床に就くことに夢を見て、熟睡できる未来を考えながら、目を閉じるだろう。

神代一人が表情を緩めて眠れるのは、たったひとりの女性の前だけだった。