「……なん、が、悪いってどういう……!!」
「落ち着け、いや、解る。解るが、冷静になれ」
父である一郎にそう言われるが、一人は冷静になんてなれなかった。
あの事件は、が、悪いとされている。
意味が解らなかった。過剰防衛と言うなら解るが、元は男たちがを囲んだせいである。
「――未遂だからこそ、警察もどうにもできないそうだ」
「なん、で」
「手首にアザはあるが、……逆に言うと、それだけしかない」
一人は絶句した。共に聞いていた静江も悲痛な顔をしているが、逆にその話が本当なのだと解る。
人を殴った際にできた手の傷以外には手首のアザだけで、男たちのほうが全員怪我をしている状況なのは、確かにその通りではある。けれども、それならが襲われれば良かったなどと、そんなことあってはならないと一人は憤るしかなかった。
が、どんな思いをしたのか、誰にも解らないというのに。
それなら、自分がもっと早くあの場に、コトが起きる前にを助けに行けていたら――。何度も思ったことをまた考えてしまう。
「何と言うか、相手側も被害届を誰も出さないのは良かったのか悪かったのか」
「は……?」
「女ひとりに一方的にボコボコにされたのは、それはそれで屈辱的だったんだろう」
「ああ……」
体格差が出てから一人のほうが組手は強くはなったが、それでもは普通の男相手ならどうにでも出来るほどに強い。高校に入っても身体は鍛えていたらしく、腕が錆びていないのが良かった、のかもしれない。
そもそも筋力や体格差で一人が勝ってるだけで、純粋な強さで言えばのほうがまだ強いと一人は思っている。闘い方という点で言うとの家の武術は自分の力なんて及ばないのである。油断していたら顎に一発喰らって普通に動けなくなると思われる。
「学校も事件にはしたくないという態度だった。――女側が誘ったのでは、などと言う教師もいたのが、腹立たしかったな」
「……誰。どんな顔だった」
「失言だった。忘れなさい。教えてどうなるのか考えたくない」
「……」
母親が喋らないのはむしろ怒っているからだと、一人はそこでやっと気づいた。その場にいて、同じことを聞いたのなら女性であるこの人のほうが怒りが強そうである。元々のことを好いている母親なのだ、嵐のように怒りが渦巻いているかもしれない。
「は?」
「眠れていなかったみたいだから、眠剤を処方して寝かせてある。警察とも学校側とも同席していたが、……警察はともかく、学校側のときは同席させるべきではなかったな……」
そもそもには親族がもういない。保護者がいないので、自身が矢面に立つしかないというのがある。一郎と静江がどれだけ動こうとしても、結局他人でしかないのだ。
静江が沈痛な顔で、やっと口を開いた。
「あの子、泣きもしないのよ」
「……父親の葬儀のときもそうだったが、部屋で泣いている様子もないのがな」
言われて、一人もが泣いているのを見たことがないことに気づいた。子どもの頃ならあったかもしれないが、それでも一人の記憶にある中でが泣いているのは見たことがない。
確かにの父親の葬儀でも泣いている姿は見なかった。気丈に振る舞っているだけだと、そのときは思っていたのだ。
背筋が、冷えた。は泣かないだけなのだろうか。泣けないのだろうか。
泣くのを、隠しているのだろうか。
そんなことすら今さら気づく。が泣いた姿を、一人だけでなく大人たちも見たことがないのは流石に不安にも感じる。泣きたいのを我慢しているのなら、せめてこの診療所にいる間は我慢をしなくてもいいと一人は思う。
「一人、ちゃんはしばらくここで預かることになるから」
「解った」
手首のアザ以外何ともなかったとしても、この状態で未成年の女性をひとりで家に帰すのも後味が悪すぎる。
入院している体なら、同年代の一人がいる診療所でも構わないだろう。それでも距離感に気を付けねばならないと一人は自分を律した。
が少しでも穏やかに過ごせるようにと願い、また前のように話すことができるだろうかと、一人は少しだけ期待した。
***
「おはよう」
「ああ、おはよう」
が診療所に来てからしばらく経った。
診療所にがいても、生活に変わりはない。診療所でやることが変わらないからである。患者を診察・治療して、一人は一郎から学んで、その輪の中にがいるだけである。
ただ、台所にが立っていたり、洗濯物を干したりしているのを見て、一人は何とも言い難い感情を持つようになった。
こうやって朝に挨拶をするのにも慣れてきたが、初日よりも時間が経った今のほうが一人は恥ずかしさを感じてきていて、自分で自分が解らなかった。
が日に日に、女性らしくなっていっているように見える。中学校後半から高校に入ってからも女性らしくなったと感じてはいたが、診療所に来てから余計そう思えるのが不思議だった。
のことをそんな風に感じているのも一人は居心地が悪かった。暴行未遂の男たちと一緒の枠組みになりたくないが、をそんな目で見始めていることに気づいてしまい、のことを真っ正面から見ることができなくなってきていた。
泣くこともないのことを、支えたいと思ってから、一人は日に日にに対して形容し難い気持ちを大きくしていっている。
「イシさんに昨日も教わってたんだろう」
「うん。煮物教えてもらった」
「渋い……」
「やっぱりそうなのかな。でもイシさんから料理教えてもらえるのは何か楽しい」
「――そうか」
診療所に来たときは、見たこともないくらいは静かだった。泣くこともなく、怒ることもなく、逆に診療所の面々に謝ってばかりだった。怯えた顔も少ししていたが、迷惑をかけているからという感じが強く、一人が逆に怒りを感じるほどだった。
は何も悪くない。悪いのは、男たちのほうなのに。助けもしない警察や教師にも一人は憤っていたが、はただただ診療所の面々や、村の人たちに迷惑をかけていることを謝っていた。
今は、少しだけが笑うようになった。
イシさんから料理を教わったり、母の静江と一緒に診療所の雑用をやったり、診療所の一員のようにもなってきている。
空いた時間は一人と一緒に学校の勉強もしている。医療の勉強には興味がなさそうだったが、自分の身体を動かしながら筋肉の解剖図を熱心に見ていたのがらしいと思った。
診療所の面々が驚いたのは、が一人よりも筋トレの時間が多いことだった。することがないとそうなるらしく、自分の家にいるときよりも診療所にいるほうが暇な時間が多いから筋トレの時間が増えると言っていた。一郎の背中を見ながらどんな筋トレをするのか聞いていたのも印象的だった。
そのあとにが「一郎先生よりも一人はやっぱり細いね」と言い始めたのが耳に残ったので、一人は少しだけ筋トレの時間を増やした。
そうやって診療所で共に過ごして、が慣れてきていると一人は感じている。から楽しいという言葉が聞けて、一人は少しだけホッとした。
をあの日助けられなかったことを、一人はずっと後悔している。
もっとどうにかできたのではないか。もっと、自分が行動していたら。もっと、のことを見ていたら。
そうしたら、はもっと、笑っていてくれたのではないか。
――もっと、自分を頼ってくれていれば。
そうするほどの人間ではないのだと、一人は自分自身でそう評価した。
事件があった日も、その後も、は人前で泣くことも怒ることもない。それが一人は、少しだけ不安に思い、寂しくもあった。
「一人、電話が来てるけど」
「電話?」
母の静江に言われて疑問に思いながら電話に出てみれば、の友人の女性だった。
「じゃなくて俺に?」
『そうっす、や、違う、すんません。あの、に何かありました? つるんでた男たちがあんまいい雰囲気じゃなくて、……のこと探してるんです』
***
「……っ」
「また無理をしましたな」
「でもどうにかしました」
村井さんに顔の怪我を治療されながら、一人はそう言う。何人かに囲まれても、体格も恵まれてるおかげでどうにか対処ができる。と一緒になって武術を習っていて良かったとは思う。今はもう我流すぎてただの喧嘩でしかないのだが。
には何も伝えずに男たちに接触をして、そのまま殴り合いになってしまったが、一人は悪いとは思っていない。あのとき守れなかったことをずっと後悔しているので、今度こそは、という気持ちが強かった。
のように上手くできなかったことだけが心残りである。自分の体格でこれなので、の強さが垣間見える。
「――えっ一人!? 何、どうしたの、……喧嘩?」
帰宅したに見られてしまい、一人はどう言おうか少しだけ考えて、何も言わないことを選択した。
「……転んだだけだ」
あとからとんでもなく下手な嘘だったと一人自身思うのだが、このときはこう言うので精一杯だった。村井さん自身とんでもない顔をしてこちらを見ていたが、あまり嘘を言うことがなかったのでこれでも頑張ったほうである。医者として活動するならもう少し上手くなろうと人知れず一人は思った。
下手だと自分で思ったせいもあって、の顔が見れなかった。
「……そ、う。気を、つけてね」
そう言ってが居間から出ていって、一人は少しだけ息を吐いた。こんな傷は見られたくなかったし、嘘を吐いたのも居心地が悪かった。
誤魔化せたと思ったが、村井さんからしたらそんな風には見えなかったらしい。
「坊ちゃん、今のはむしろちゃんと言っておいたほうが良かったかもしれませんよ……」
「……でも、にもう余計なことは考えてほしくないです」
「それは……」
気を遣った。にはこんなことに関わってほしくないし、昔のように笑っていてほしい。
そのために自分が矢面に立つのは構わないし、怪我をするのも厭わない。そもそも男の自分の喧嘩ならそこまでコトが大きくもならないという算段があった。女のが男たちをあんな風にしたから何か言われるのなら、男の自分が、学生の喧嘩として動くのは別に構わないだろう。
に気を遣ったつもりだった。守りたいだけだった。
その後も何度か件の男たちと殴り合うようなことにもなったが、結局元の素行が悪かったのもあって元凶たちは退学をしていった。最初は怪我をしていたが、その内怪我もせずに相手を叩きのめせるようにもなっていた。に見つかると心配されるので、そこだけは喧嘩の腕が上がって良かったかもしれない。
はしばらく治療院で一緒に住んでいたが、春には自分の家へと戻って行った。一人が卒業生になるからだとか、外聞だとか、よく解らないことを言い、を引き留める術を持たない一人は何も言えなかった。
の友人から電話を貰ったときに聞いた言葉を思い出して、一人はに尋ねた。
「……家に戻って、寂しくは、ないのか」
寂しいと少しでも思っていれば、診療所に住み続ければいいと言える。ここなら誰かしらがいるので、を独りきりにすることはない。医療のことでも、イシさんに料理を教わるでも、何でもできる。
『夜はひとりですることもないし暇で寂しいからって、しょっちゅう電話してたのに繋がらなくてめっちゃ焦ったんすよ』
の友人が電話越しにそう言ったのを、一人はしっかりと覚えている。
が、そんなことを友人に言うことに驚き、寂しいとやはり思っていることに重ねて驚いた。それを自分ではなく友人に言っていることがとてつもなく悔しかった。結局診療所に居る間にが泣いている姿を見ることもなく、事件のことで謝ることはあってもそんな風に弱音を吐くことは終ぞなかった。
寂しいと、は言うのか。弱音を、言えるのか。
それを言える相手が、いたのか。
自分では駄目だったのか。うちの家族では駄目なのだろうか。
言ってくれれば、家族になることだって、できるのに。
「寂しくても、でも、あそこが家だし」
の言葉に一人はどう反応したのか覚えていない。相槌を打った気がするが、どんな声音と顔で返事をしたかも全く思い出せなかった。
診療所は、家にはなれなかったのか。共に生活をすることを一人は心地よくも思っていたけれど、はそうではなかったらしい。
共にいたいと思っていたのは、一人だけだったと解ってなおさらショックを受けていた。