色々あった末に、診療所にお世話になることになった。
村の人たちは庇ってくれた。特に一郎おじさんも静江おばさんも親身になってくれたが、学校側はそんな風には接してくれなかった。何となくだが、片親だからと言ってくる子どもの親はこういう人たちなのではないかとは勝手に思った。
ただ相手の男たちが事を大きくしなかったのだけは感謝した。どう見ても自分のほうが加害者だったので、捕まらなくて助かったのは自身だった。
色んな人に迷惑をかけた。自分のせいなのはよく解っていたので、謝ることしかできない。
自分の不甲斐なさで一人にも謝れば、何に対してなのか逆に問われた。
「何でが謝る」
「……ぇ、わたし、が」
自分が、――心配してくれた一人の言葉も聞かずに、いたから。
「が、謝ることじゃない」
「それは……」
「は謝るようなことをしていない。謝罪をしなければいけないのは、あいつらだろう」
一人が拳を強く握っているのが見えた。人を救うための手が、自分のせいで傷ついてしまうような気がして余計に惨めに感じた。
「でも、……でも、私が、本気で動いて、怪我を」
「そんなことをしなければいけなくなったのは、誰のせいだと思っている」
一人は床に膝をついて、座っていると目線を合わせてそうやって言う。それでも不用意に近づきすぎることはなく、はだからこそ一人には事件があったあとも普通に話すことができた。
「私が、悪いのに」
「は悪くない」
こんなにも惨めで情けないのに、一人と話すと心が軽くなる。一人は何度も何度もを心配し、が謝れば何度でもは悪くないと言葉にしてくれた。
他でもない一人にそうやって言われたことが、ただただ何よりも嬉しくては救われた。
動けなかった自分を助けてくれただけじゃない。救ってくれたこの目の前の男は、やはり医者たり得る人なのだろう。
こうやって言ってくれる一人の気持ちや行動が嬉しかった。けれども、迷惑をかけているのも解っている。
は一人から目を逸らして、自分の足元を見た。何度言ったか解らない言葉がまた口から出て来る。
「……ごめん、なさい」
「違うだろう。こういうときは、謝罪ではない」
「なに、……何て、言えば」
謝罪以外の言葉が全く出てこないは、本当に何て言えばいいのか解らず一人の顔を見た。困惑していれば、一人は少し微笑んで口を開く。
「こういうときは、謝罪ではなく礼をするものだ」
一人が笑った顔を見たことがないわけでもないのに、何故か初めて見たかのようには衝撃を受けた。この人は、こんな風に笑うのだっただろうか。
言われた言葉も衝撃的だった。謝罪ではなく、お礼を求められるとは、本気で考えが及ばなかった。
「――ありがとう」
「ああ」
どちらもそっけない言い方だった。けれども空気は温かかった。
一人を、好きだと思った。吊り橋効果かもしれない。身近にいる害のない男だからかもしれない。幼馴染だから一人が世話を焼いているだけの、そんな関係かもしれない。それでも、は一人のことを好きだと感じた。
助けてくれたのも、を悪くないと言ってくれたのも、一人だった。
目線を合わせて笑ってくれたことが、こんなにも嬉しい。
一人を、好きになっていた。
***
診療所の暮らしは穏やかで、けれども忙しい。が手伝えることなんて家事くらいしかないが、一員になれるのは嬉しかった。
誰かと一緒に過ごすのは、実に数年振りである。しかも人が多いので賑やかだとも感じた。診療所の面々はたくさん喋るタイプの人たちでもないが、としてはどこかしら気配のある賑やかな家庭だった。
いつか、この診療所で暮らす――、のかもしれない。
村の掟をどこまで続けるのかは解らない。一人がそれを是としているのかも解らない。だがこのままいけば、一人と結婚するのはになる、はずである。
いつか診療所で暮らすのが、今からになってしまっているのだろうか。は両親の馴れ初めというものも知らないし、恋愛というものも漫画やドラマでしか知らない。自分が一人を好きになったのは、いいのか悪いのかも解らない。
村の掟に従って、いつか一人と結婚して、こうやって暮らすのだろうかと、診療所で生活をしていては考える。まだ少し精神面で不安定で、夜は眠れたり眠れなかったりとバラバラなので、信頼できる医者のいる診療所で暮らすこと自体は大変ありがたかった。
けれども自分の家を忘れ去ることもできない。いつまでもズルズルいるわけにもいかないのはも解っていた。
診療所の人が優しいから、自分がまだ不安定だから、だから一緒に生活しているだけである。入院している体であり、いつか退院しないといけない。
それをいつにするのか、いつになるのか、主治医である一郎おじさんは何も言わず、ならばとズルズル診療所での生活を続けている。
終わりを考えたのは自身からだった。
「――えっ一人!?」
診療所の居間に入ったら一人が傷を負って村井さんに手当をされていた。驚きすぎて不躾に質問を投げかけてしまう。
「何、どうしたの、……喧嘩?」
口周りの傷具合が、どう見たって喧嘩の痕だった。打撲痕はそこまで酷くもないが、この男に怪我を負わせられるような人間がいるとしたら、相手が多人数なのではないだろうか。
自分で考えてそう口にしたけれど、一人が喧嘩をするなんて考えたこともなかった。体格もよく威圧感があるので下手な人間は一人に絡むことはないし、一人がそこまで暴力的な男だと思ったことがない。田舎だし今の時代そういうことが全くないとは言わないが、一人が積極的にそんなことをするなんてありえないと断言できる。
心配だった。何の見返りもなく自分を助けてくれた一人が、何かに巻き込まれたのなら力になりたい。誰かを守るためなら自分の武術だって使っていい。
けれども、一人からの答えは拒絶だった。
「転んだだけだ」
「……そ、う」
流石に嘘だとは解った。けれども一人がそう言うのなら、それ以上は何も言えない。
村井さんは何があったのか知っていそうだったか、聞くに聞けなかった。一人が言いたくないことを村井さんに聞くのは失礼だろう。
「気を、つけてね」
絞り出せたのはそんな言葉しかなかった。どう見ても転んだ怪我ではなく殴られた痕でしかないのに、一人がそう言うのなら、無理矢理納得するしかない。
一人が目線を逸らして言うのにも何故かショックを受けていた。いつでも、自分の目を見て話してきていたのに。何故、どうして、の言葉が頭の中を占めているのに、それ以上言葉を重ねて一人に嫌な顔をされたりしたら、一人を好きだと気づいてしまったには耐えられない。
だから、当たり障りのない気を遣った言葉を言って、今借りている部屋に戻るしかできなかった。
診療所の様子から、自分だけが何も知らされていないのだと気づいた。自分だけが、何も知らない。
教えてもらえない。知ることもできない。聞くことも、自分の立場では憚られる。
(ああ、そっか。そうだ。私、別にこの家の人間じゃないし)
部外者なのだ。当然なのかもしれない。かもしれないではなく、当然だった。
結婚の話は村の掟で言われているが、それが本当になるかも解らないとは自分で思っているのだ。診療所に入院してる体の、近所の部外者でしかない。よその子どもで、ただの村の人間で、迷惑をかけている居候だった。
考え始めたら胸が痛んでしょうがなかった。居心地が悪い。呼吸が乱れてきているのが自分で解るが、息を吸って吐くだけの動作が少しやりにくく感じてしまう。
(……帰ろ、帰りたいな)
家に、帰ろう。ここはやっぱり、自分の家じゃないんだ。ここは、神代さんの家で、村の唯一の診療所。
寂しいなと感じた。
ここにいる間は感じなかった、久しぶりの寂しさだった。家に帰ったらまた寂しく感じるのだろうが、ここにいてもこの感情を持つのなら、どこにいても同じように思う。
デカい家で独りなのは、慣れればどうということはない。でも、この人数で過ごしたあとの寂しさはどうだろうか。怖いな、と思った。でも家に独りだったら泣くのが楽でいいかもしれない。
診療所にいる間は、どうやって泣き声が聞こえないか考えて泣くしかなかった。部屋で声を押し殺すか、風呂場で泣くかだ。迷惑をかけているのにさらに心配されるのは嫌だった。昔から人前で泣くことはしないようにしていたので、誰にも気づかれないように泣くのを無意識でやっていた。
だから、自分の家のほうが楽かもしれない。誰にも迷惑をかけず、誰にも知られずにどこでも泣ける。
診療所に来る前は独りきりは寂しかった。いつもそうだった。誰もいない家に帰るのも、誰とも喋らないのも、寂しくてしょうがなかった。学校や村の人たちは親切で賑やかだったから余計だった。
診療所にいる間は常に誰かしらがいて、独りにはならなかった。おやすみ、を寝る前にちゃんと言う生活なんて数年ぶりだった。
でも、今は近くに人がいるのに何故かとても寂しくてしょうがない。
いつもの友達に電話して、話を聞いてほしい。他愛もない話をし、家に独りは寂しいと片親の友達に冗談のように言い、笑いながら「おやすみ」と言える相手だった。寂しいと言える相手がこの友人だけだった。神代の人たちに言っても困らせるだけで、言ったところでどうしようもない。
友人には言えるのだ。家に帰っても寂しいことをお互い知っていて、そうやって話しながら励ませる相手だったから。
(ああ、帰ろう)
やっぱり自分はこの家の人間じゃないのだし、それが、良いように思えた。
退院話をすれば引き留められたが、冬が終わったらは自分の家に帰った。何せ不安定さはなくなり、眠剤なしで眠れるようになり、事件の男たちは知らない場で色々あって大体が退学をしていた。もう憂えることはないので、一郎さんもそれならと退院手続きを行ってくれた。
退院日に、一人から質問をされた。
「寂しくは、ないか」
そんなこと、何故聞くのだろう。寂しいと答えたところで、ここは自分の家ではないし、神代の人達は家族ではないのだ。父親は戻ってこないし母親に至ってはよく知らない人なので、家族のいない寂しさはずっと付き纏う感情なのだとは思うようにした。
「寂しくても、でも、あそこが家だし」
結局帰る場所はあそこしかないのだと、は思う。父親の私物はまだたくさん残っており、仏壇もある。放置することもできない。
普通に生活できるようになった今、居候としてここにいるのも何かが違う。なら一人と結婚すればいいのかと言うのも、違う。一人にその気もなく、自身もそれで良しとできるほどの意気地はないし、一人にそのことを聞く勇気も出なかった。
退院するというのに一人は笑ってくれなかった。責任感の強い一人が、独りきりのあの家に帰すのを渋るのも解らないでもない。
けれども、一人は別にずっといればいいとは、言わない。
お世話になった面々に頭を下げて、そうやっては自分の家に戻った。
寂しい気持ちもあるけれど、やっぱり住み慣れた家はそれはそれで楽だった。
「おはよう」も「おやすみ」も、誰かに言えるあの空間は、やはり賑やかだったとは、思った。