言葉だけの意思表示

あの玉が何の装飾品も付けずに邸に来たとき、は何かよくわからない感情が落ちたように思った。

「…どうしたの、その格好」

あの欧陽玉が、何の飾りも付けず、自分の目の前に立っているのである。その格好で自分の家に来たことが驚きだった。それはつまり、そんな簡素な格好で往来を歩いてきたということである。驚かないはずがなかった。あの玉が、である。同時に酷く胸の奥がモヤモヤした。何かが心の奥底に溜まっていくような感覚。胸騒ぎとはまた違うが、似たようなものだった。あまり、今から玉が話すことを聞きたくはなかった。
玉は、の質問に答えず淡々と自分のことを話した。

「臨時措置で碧州州牧になりました」
「はっ!?」
「これから直ぐに碧州に向かいます」

そこまで言われて、の胸が痛んだ。ああ、それはつまり。

「もしかしたら帰ってこれない?」

死にに行くわけでもないが、下手をしたら餓死するかもしれない土地になってしまった場所への赴任である。地震も起きていると聞く。
はどうして碧州州牧になったのかの経緯などは聞かず、ただ単刀直入に自分が思ったことを聞いた。玉はその意味をきちんと理解して、直ぐに返事をする。

「それはあまり有りません。私が居なくなれば周りが一番困ります。そうならないように、文官も武官も努力するはずです。させます」

最後の一言は玉らしいと思った。
しかし、行き成りの出世である。…それでも、碧州のことを考えれば、それは妥当な判断だと思えた。そうしなければ多分、玉は辞表を出して勝手に故郷へ帰っていただろう。碧州の蝗害を聞いてからの玉は誰がどう贔屓目に見てもおかしかった。おかしかったと言うのは語弊があるかもしれないが、普段を知っていればそれも妥当な言葉に思えるはずだ。冷静なようで視野が狭くなっていて、毎朝自分の髪を結いにくるのは止めなかったが口数は格段に減っている。もしも辞表を提出して碧州に行こうとしても、は止められなかった。止める理由もないし、自分の言葉で止まってくれるとも考えられない。玉は、そういう人だ。官吏として素敵な人だが、それ以上に故郷や一族を愛している。きちんと自分の意思で考えて中央に来て官吏をやっている。それは碧州のためで、碧家のためで、欧陽家のためでもある。そうして最終的に、自分自身のためなのだろう。官吏にならずに何になるのかと聞きたくなるような人柄なのだ。そういう、人だ。

「ですが、しばらく帰ってこれないのは事実です。とりあえず冬まで頑張れと言われてますが、まあ色々あってもっと延びるでしょう」

いつもと同じ真剣な顔なのに、には何かが違って見えた。そう思えただけかもしれない。何故か今、玉が男の人なのだと改めて気付いた。おかしい。そんなことずっと前から知っていたのに、今改めて、そう思えたのである。身体つきや声から色んなものが違って男だという認識はあったのに、何故だろうか。ちょっとだけ考えたが解らなかった。それ以上に、今の玉は格好良いと思えてしまったからだ。

「…それに」

そこで玉は一拍呼吸を置いた。は、何か言おうとは思わなかった。玉は最後まで自分の口で伝えたいことを伝えるだろう。
それが言いたくないことでも、嫌なことでも、自分を悲しませるようなことでも、玉は自分の口で自分の言葉で、言ってくれる。そうは思っている。

「本当は、もしかしたら、帰ってこれないかもしれません」
「…うん」
「今はまだ紫州に被害はありませんが、これから出てくる可能性は十二分以上にあります」
「うん」
「だから、」

その続きの言葉は、三拍経っても出てこなかった。それでも、は玉から目を逸らさない。玉は、男の人の顔つきをしていた。

「…だから、……しばらく、私が帰ってくるまではの髪を結えません」
「……うん?」

あれ、ちょっと思ってたのと違う言葉が出てきた。何かいきなり玉が女々しい顔になったように思えた。おかしい。さっきまでと全く同じ顔なのに、何かが違う。何か女々しい。ちょっと殴りたい。

「んん?あれ、そういう流れなの?」
「………」

玉はそこで初めてから目線を逸らした。全力でどこか別のところを見つめる。自分自身とても情けないことが解っているから、そうするしかなかった。何てことだ。

「何かこう…自分ももしかしたら死ぬかもしれないし、私も死ぬかもしれないから覚悟しておけーって言われるのかと思ってたんだけど」
「…それも言おうかと思ってたんですけど」
「ですけど?」
「…それじゃあ帰ってこれなくなりそうじゃないですか」
「あー…うん」

確かにそんな感じがする。しかし玉がそんなこと言うなんて意外だった。
玉自身は、本当に直前までそのことを言う気でいたのだが、の顔を真正面から見つめて考え込んでしまったのである。何か今言ったら自分帰ってこれなそう。そうして次に考えた言葉は、今言うべきことではないので止めた。帰ってきてから言いたいと思ったが、その考えも死にに行くような気がして考えることすら止めた。そうしたら、結局髪を結えなくなるという言葉しか出てこなくなったのである。我ながら情けないし、わけが解らなかった。何だ今この重大なときに。
それでも、結構重要なことなのだ。自分が、の髪を結わなくなる。できなくなる。
のいつもの日常に、自分がいなくなる。自分だけの特権が、なくなってしまう。

『玉に髪を結ってもらうの、好きよ』

の言葉が、頭の片隅で響いた。
碧州に行くのは問題ない。でも、のその役目がなくなることが、ちょっとだけ嫌だった。寂しいのかもしれない。けれどもその感情を理解したら、自分の背後にある暗闇がやってきそうで、ちょっとだけ怖かった。死にに行くのではない。でも、…もしも、万が一、冬まで支えても、どうにもならなかったら。それ以上に、冬まで保つことができなければ。紅州に行くのは旺季様で、中央官吏たちもやるときはやってくれると信じている。それでも、もしかしたら。
最善の一手も、最悪な結末も玉はきちんと考える。そうして、もしかしたら自分は最悪死ぬかもしれないし、も死ぬかもしれないと思って、口の中が急に乾燥した気がした。ああ、自分はこんなにもただの人だったのだと気付く。それなりに冷酷な所業もやってのけられると思っていた自分自身を嗤った。それでもを好いている自分が嫌いではなかった。毎日が楽しくて、ちょっぴり苦しいから、それも幸せだと思えた。
そう思えるのは、今この瞬間だからだろう。貴陽を離れる時刻は近付いているし、深く暗い深淵が玉の周りに纏わり付こうと背後や足元から来ているのが手に取るように解る。
玉は自分が泣きそうになっていることが堪らなく悔しかった。何でこんなにも女々しいのだろうか。出立準備をしている最中は自分にできる最善のことしか考えてなかった。もしも、なんて言葉は使わなかった。最善から最悪な道は考えに考えぬいても、もしもなんて考えなかった。けれども、この邸に着いて、の顔を見て、思ってしまったのだ。もしも、もしかしたら、自分が死ぬかもしれない。も死ぬかもしれない。それは直ぐではないかもしれないが、全てが駄目になったときどちらも生き残るということはあまりないだろう。どちらとも死ぬ可能性の方が高かった。まだ微かに、碧州州牧という立場から自身が生き残る可能性が高いだろうけれど。

「玉、難しい顔しながら泣きそうよ」

そう言われてハッとした。瞬きすれば拍子に落ちてしまうであろう、目に溜まっている水分を気力でどうにかした。

「ねえ玉、私は何も言わないよ」
「……」
「だって玉は何を言っても行っちゃうんでしょう?だから、私からは何も言わない。でも、玉からも言わなくて良いよ」

気力で涙腺をどうにかしながら、ゆるゆるとのその言葉を反芻していく。…それは、つまり。

「私からの言葉は聞かないと」
「うん」
「…今更、聞かないと」
「うん」

今まで自分の言葉をきちんと聞いていたのに、いきなりそんなこと言うなんて、何て酷い女だろうか。自分はどうしてこの女に惚れた。
今この瞬間に、想いを告げることもできないなんて、何て酷いことを言うのだろうか。帰ってきたら言おうと思って、でもそれも死にそうだから止めておこうと思っていたら、この言葉である。ちょっと今言っても良いかな、言いたいな、なんて思っていた自分が悲しい。雰囲気で何で察してくれないのだ。

「なーんにも、言わない。あ、でも、行ってらっしゃい頑張って。それくらいは、言ってあげる」
「何で上から目線なんですか。っていうか喧嘩売ってるんですか貴方。……後で、後悔しても知りませんよ。あのとき私の言葉を聞いておけば良かったーなんて」

との恋愛に関しては、玉は信じられないほど下手で奥手だ。嫌だと思っても、渋々の言葉に従うことが多々ある。
今回も、そうなった。今の内に言っておきたいこの気持ち。でも、はそれを拒んだ。言われることを予想して、拒んだのである。あ、そう考えるとまた涙が出そうだ。そうじゃなくて、そう。そういう死ぬかもしれないっていう前提での話はしないってことだ、そういうことだろう。そう勝手に玉は考えた。そういうことにしておかなければ本当に泣いてしまう。っていうかそうじゃないと帰ってきてに逢えなくなる。拒まれたのに普段通りに逢うのは辛い。だから良い方に考えた。

「後悔しないように、祈っとく。私のこの髪を切ってお金にすることがないようにって。そんでもって、この髪をまた玉に結ってもらえますようにーって」

何事もないような声音で、はそこまで言って小さく一呼吸した。そうして、少しだけ俯いて呟く。

「そう、祈っとく」

言うのではなく、呟くという言葉が当てはまるその声に、玉はやっぱり良い方に考えた。ああうん、自分は頑張れる。絶対ここに帰ってくる。王都貴陽に、朝廷に、このの邸に。絶対、帰ってくる。そう決意した。

「…結局、言ってるじゃないですか」
「違うの。お祈りなの」

言ってる時点で駄目だろう。でもまあ、そういう馬鹿なんだか阿呆なんだか解らないが好きだった。
俯いたまま、少しだけ涙声になってる彼女を愛しいと思う。故郷や一族と、同じくらいに。
本当は愛の言葉や詩の一つや二つや三つ送りたいところだが、が言わなくて良いと言うから止めておいた。だから、たった一言だけ。
もうこの邸を出なければいけない時間を感じて、玉は俯くに最後の一言を口に出した。今はまだ、髪を結う以外に触れることはしない。言葉を贈ることも、しない。たったこの一言だけで、済ます。

「行ってきます」

ここに帰ってくる意思表示を、たった一言に込めた。

「…行ってらっしゃい、頑張って」

が泣きながら見送ってくれたことを胸に抱いて、玉は碧州へと出立していった。



10/04/02
まあ生きて帰ってくるとは思いますが。
帰ってきたとき、玉はヒロインにとってとっても素敵で男らしい殿方になっているんだろうなあと思います。
この件で一皮も二皮も剥けるんでしょうねえ。それがとても、楽しみです。
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