夢に見るまで愛しい人

まだ言わなくても、良いと思っていた。
伝えなくても、もう解っているものだと思っていた。
だから誰よりも近い位置で、誰よりも想いを込めて、誰よりも愛した。他の誰よりも、愛している自信はあった。普段の自分に比べたらそれはダダ漏れで、時折恥ずかしくなるほどに。
まだ言わなくても良いと、思っていた。そんな自分の気持ちを彼女も全部とは言わずとも、それなりに理解しているだろうと、勝手に思っていたから。
勝手に、そう思っていたから。



「ただいま戻りました」
「…玉」

碧州から帰ってきて、やることはやって直ぐに玉はに逢いに向かった。早く逢いたくて逢いたくて、堪らなかった。彼女の髪の毛を結うのは自分だけの特権であり、その日常がないだけで酷く心が落ち着かなかった。他の誰かがやっているのだろうかと考えただけで、感情は波打ってしまい、それでも押さえ込んで碧州のことに全力を注いだ。
やっと帰ってこれた。やっと逢いに来れた。
愛する人が居るというのはとても幸せなことだった。帰ってくる場所があるというのも幸せなことだった。欧陽玉はこの年になってそんなことに今更気付いたのだ。
帰還を告げて、ほんのちょっとだけ微笑んだ。一拍後に彼女は、大粒の涙を流して声にならない言葉を出した。

「っ、玉、玉…ぎょくっ…」
「はい」
「…足は、ある…?ケガ、はっ…?」
「喜ばしいことに幽霊でもなんでもありません。怪我もしてませんよ。確認しますか?寧ろ立って歩いてこの邸に来てる時点で解るでしょう」
「っ…」

涙は止まらなかった。後から後から溢れてきて、の目も顔も濡らす。少しだけ痩せただろうか。彼女のそんな顔を見て思った。
とうとう彼女は手で顔を覆い、俯きながら嗚咽が更に大きくなった。

「…ぶじでっ、無事でよか、った…」

泣きながら笑おうとしているのか、彼女は酷い顔だった。今まで見た中で一番かもしれない。一番酷く汚くて、歪んでいる表情で、…とても愛おしいと、思えた。
衝動的に抱きしめた。ずっとずっと、したかったこと。ずっとずっと、こらえていた想い。彼女への恋慕、庇護欲、独占欲。今まではあまり表に出そうと思っていなかった。ほどほどに出して、でも出しすぎではなく。それでも彼女は何となく気付いているとは思っていた。そうして、彼女自身も自分と同じような気持ちなのだろうと、何となくだが思っていた。
玉は元々細身で、碧州に行って更に細くなった。そんな彼からしてもは細かった。至るところが柔らかいのは、やはり女性だからだろう。いつも触れている髪の毛も柔らかければ、抱きしめているこの体躯も柔らかかった。ああしかし、本当に細い。けれどもそんな考え浮かんでは何処かに飛んでいく。今、こうやって抱きしめることができていることが、言いようのない幸福感でいっぱいだった。
無事で良かったと言いながら泣く彼女に、胸が詰まるような感情を覚える。そんな顔をしていることにも、そんなことを言っていることにも、今こうやって拒否もせずに抱きしめられていることにも、玉は幸せで幸せで、泣きたくなるほど嬉しかった。
少しだけそうやってこの時間をかみ締めていると、彼女はゆっくりと腕を背中に回してきた。…ああ、またそんな嬉しくなるようなことを。
の首元に埋めていた顔を少しだけ離して、玉は今ここでこうやって言うのが、一番美しくて最高だと思いながら口を開いた。彼女の耳元で、最初は名前を呼んだ。

、行く前に言おうとしていたことです」

聞かなかったことに後悔しないなんて、そんなことを言いながら絶対彼女は後悔していただろう。自分からのこの言葉を聞かずに、送り出したことを。
今はそれも関係ない。きちんと帰ってきてこうやって言うのだから。
玉は更にから顔を離した。顔を離しただけで、身体はずっと抱きしめたまま。密着している腕や身体は、温かかった。自分のことで不細工ながらも可愛らしく泣いているの顔を見ながら、玉はずっとずっと、想っていたことを告げる。今まで言うのは怖いと思っていた。…今は、不思議と怖くはない。何故か胸は色んな感情でいっぱいで既に充足感がある。愛しいという感情が数多く出てくる。自分の気持ちはもうダダ漏れだっただろうが、今、初めて言葉にして玉は彼女に伝える。

「…好きです。愛しています。多分貴方よりもずっと、長く。…貴方と同じか、それ以上に、私は貴方を愛しています」

片手で彼女の頬を撫でながら、玉は今までに出したこともないような甘い声でそう告げた。充足感の次は満足感が沸いて出る。ああ、やっと言うことができた。あと埋まるとしたら、更なる幸福感であろう。早く、早く、彼女の口から言葉を聴きたい。今でも充分幸せなのだが、今までに体験したこともないような幸福感を、彼女なら与えてくれるだろう。…ああ、早く、その世界で一番幸せになれる言葉を、彼女から聴きたい。
涙で目は赤くなり、顔が近いからか頬も耳も赤くなっている彼女は、やはり泣きながら口を開いた。

「……私、も」

好き。
ぽつりと、凄く小さな声で呟いたが玉にはきっちりと聞こえた。…ああ、やっぱり。
玉は堪らずまたを強く抱きしめる。隙間なく抱きしめても、足りないほどの感情。思わず直ぐ近くにあったの耳に唇を寄せた。
信じられないほどの幸福感だった。幸せすぎて胸の奥が痛い。むしろ胸いっぱいで胸焼けしそうなくらいだった。ああ、こんなにも、彼女は簡単に自分を満たしてしまう。たった一言しか貰っていなくても、玉には充分だった。視線を逸らさず、潤んだ瞳で自分を見ながら顔を赤くし、そうして小さいながらもしっかりと、自分に対しての想いを告げる。…それが何と甘美な幸せか。今の玉は彩雲国一の幸せ者だと自負した。
耳に何度か口付けをして、熱っぽいため息を携えて玉はまた少しだけ顔を離す。の顔を見て、頭が爆発しそうなくらい沸騰した。
もう何を考えているのかも解らなくなる。けれども身体は勝手に動いていた。

玉はその日、に初めての口付けを、送った。



***



「…そん、な…馬鹿な…」

玉は簡易な寝台で朝を迎えて、起きて直ぐにそんな独り言を呟いた。そんな、まさか。いやいやいや、あまりにも生々しい感触があったのに。貴陽に戻って、やるべき仕事はきちんとやって、…あのクソ馬鹿王にしっかりと報告したこともきちんと記憶している。そうして自分の足で、彼女の、の邸に赴いて…。

(赴い、て…抱きしめて、)

自分の気持ちを正直に告げて、しかもその後の雰囲気と流れで接吻までして。
そこまでして、玉は眠りから覚めたのである。

(いやいやいや、…いやいやいや!おかしい。あまりにも感触が、生々しすぎたというか、というかあれだけきちんと仕事もしていて、実は夢!?意味が解らない)

腕の中にあった、彼女の感触も温度も、今は何も感じられない。何てことだ。やるべきことを終えた玉の、今の悲願だったのに、…何でよりにもよってあんなにも幸せな夢を見ているのだ自分は。しかしの自宅に行くまでにきちんと仕事をしてあのクソながらに今回きちんとやってのけた馬鹿王に報告までしている辺り、玉の生真面目な性格の一端が垣間見える。
玉は頭を抱えた。それと同時に大きな、本当に大きなため息を吐きながら背中を丸めた。
寝ぼけながら混乱しかけていた頭は随分落ち着いてきた。そうだった、まだ貴陽にすら着いていなかった。…今日これからこの街を出て昼過ぎ、遅くても夕方には着く予定ではあるのだけれど。しかしまさかこんな夢を見るとは思っていなかった。どれだけに逢いたがっていたのか。

(しかしまあ、…………変な夢でなくて良かった………)

布団越しに自分の下半身を見ながら、そんなことを思った。朝から自分の下着だのなんだのを洗うのは嫌である。
…いやでも、多分あのまま目が覚めなかったら更に好き勝手な夢を見ていたような気もする。何でって夢の中の自分は欲情していたからだ。そこまで生々しく覚えている。ああ、畜生。
玉は頭の中で普段言わないような悪態をつく。本物だったら何と良かったことか。
そんなガッカリしてるばかりでは時間の無駄だった。気を持ち直して玉は寝台から降りて身支度を始める。

玉が貴陽に着いたのは予定通りの昼から夕方にかけての時間、日が静かに沈み始めた頃だった。



11/08/19
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