夢に見るまで愛した人

日が傾き始めていたが、玉は貴陽に着いて直ぐに報告のための謁見を行った。
王と旺季の話は碧州まで届いている。玉はとりあえずは、目の前の玉座に座っている王を認めても良いとは、思うほどにはなった。けれども碧州派遣前の状態を忘れているわけでもなく、全てが良くなったわけではない。まあ、兵を使わず旺季様を抑えて認めさせたのは素直に感嘆した。表向きの話しか知らないが、実際はそういうことだろうと玉も予想はしていた。一人でやったことではないのだろうけど。その後の処置も中々だ。…一人で、全部やったわけではないのだろうけれど。
だが、力量ある人物が彼の王に付いていくと決めただけでも、まあ上々だろう。玉はまだ全部認めてはいないけれど。とりあえずまだ見限らなくても良いようだ。

玉は報告を行い、次いで王と鄭宰相からの春の除目の話を聞かされた。
…いや、ちょっと待て。
地方への赴任は別に悪いわけではない。実際今回の臨時措置で自分の力不足等々、実感も体感もしたし、更に官吏としての実力を付けたいとは、思ってはいた。思ってはいたが。

(す、直ぐに移動…!?)

碧州から帰ってきて、直ぐの赴任。いや、別に悪いわけではない。更なる能力向上のためにはむしろ全然構わない。官吏としての欧陽玉としては構わないが、ただ個人の欧陽玉としては大変困る。
文字通り夢にまで見てしまったのことを思い出して、玉は無意識に手を握り締めていた。



***



玉が、帰ってきた。
は玉が帰ってきたその日にそのことを知っていた。仕事があるだろうから、自分からは逢いに行かなかった。多分、玉から来てくれるだろうと何となく思っていた。
けれども玉は数日経ってもの邸の扉の前にすら立たなかった。
心配したけれど、身体を壊したとも怪我をしているとも聞いていない。普通に帰ってきて朝廷にも出ている。…逢いに来ては、くれないのだろうか。はそんな風に考えて何て図々しいのだろうと自嘲した。

(何も聞かずに送り出したのは自分なのにね)

色恋に疎くても、何となく玉を碧州に送り出したあの日に、玉からそういうことを言われるのだろうと、思っていた。直感なのか、…まあ付き合いも長いから、多分考えてることは合っているはずだ。
聞きたいと思った、けれども聞いたら戻れなくなるとも、解っていた。聞いて送り出して、玉が帰ってこなかったときのことを考えたら泣きそうになっていた。よく巷で流行る悲恋の物語などその典型的な例が載っているではないか。だからこそ聞きたくなかった。
聞かないで送り出すと言ったのは、自分だ。後悔しないとも、言った。
それでも。

(自分で後悔しないと言っておきながら、情けない)

やっぱり、後悔はしていた。
でも、それ以上に今は、…今は、寂しい気持ちでいっぱいだ。

(あっちで、良い人でも、居たかなあ)

ああ、どうしよう。こんなにも、胸の奥にぽっかりと穴が開いたように寂しい。こんな空虚感は味わったことがなかった。やっぱり聞いておけば良かったのかもしれない。そうしたら、それに縋りついて、胸の空虚感があっても諦められずにいられたのだろう。
今はもう、寂しい気持ちと、胸に穴が開いたような寒々しい感じと、…ちょっとした、諦めだった。
仕事人間だからと、見切りをつけてきっぱりと諦められたら逆に良かったのかもしれないのに。は何年経っても、こんなにも離れていても、直ぐに逢いに来てくれなくても、それでも、玉のことを諦められなかった。描いていた理想通りの仲になれなくても、…いつの間にか、好いていたことの気持ちを諦めることは、多分できないのだろうと解っていて、それでもすっぱりと玉のことを視界に入れないようにできたら、良かったのにと思っていた。

(…でもそれも、寂しい)

春はもう直ぐ、ほんの直ぐ近くなのに、何故だかとても肌寒く感じた。



***



春の除目を聞いてから、玉はどうしようかひたすら悩んでいた。悩んで悩んで、悩みすぎて、の邸に行くことができないくらい、悩んでいた。
よく考えたらに帰ってきたことすら報告していないということに気付くのに、七日もかかるほどだ。…しまった時機を逃した。今更行ってどう声をかければ良いのか。
顔を見せて、帰ってきたことを報告して、…それで、春の除目の話を、しなければいけない。
悩みに悩んだ末、公休日も来たので玉はようやっと足をの邸に向けた。

家人に声をかけ、案内される。もう見知った道と室だけれど、玉はそういうことはきちんとした手順を踏んだ。だが家人とも知った仲なので、わざわざ先にに声をかけることもなく、家人に付いて行っての普段使っている室に辿り着いた。流石に寝室はまだ入ったことがないが、は寝起き以外はその室にいるので寝台があるかないかだけの違いだった。
家人が扉を叩き、の入っていいと言う声が聞こえる。扉のせいでくぐもっているように聞こえたが、恋焦がれた声だった。
扉を開けて、家人がまず入ってに声をかける。玉は一歩引いていたので室の中は見えないし、からも見えない位置だった。

様、お客様です」
「え、今日は誰とも会う約束は…」
「お待ちしてた、方ですよ」
「え?」

そう言うなり家人はこちらを向き、視線を合わせてくる。玉は少し重たい足を動かして、開いている扉の横に立った。
室の中で椅子に座っていると目があう。驚愕に染まるその顔は、出立したときとは変わりがない。
家人は空気を読んだのかと玉に頭を下げ、それ以上何も言わずに早々に立ち去った。横目でそれを見た後、玉は視線を室に戻した。



少し声が掠れていたかもしれない。に変わりはないと思っていたが、ほんの少しだけ痩せたように見えた。
時が止まったかのように動かずにいたに声をかけると、ハッとしたように瞳が動いた。
大きく見開いたその目に、次は涙が溜まって零れ落ちるのが、見えた。

「…!?」
「っ、ちょ、っと、まっ、…ごめ、ごめんなさ、今日、はっ…」

わけの解らない単語を呟きながら泣き、とうとうはそのまま玉がいる扉とは逆の扉から飛び出して言った。
驚いたのは玉だ。確かに夢の中の彼女も泣いていたが、あんな顔での泣き方ではなかった。あんな、辛いのか悲しいのか、複雑な顔ではなかった。
夢の中での、それこそ自分の中の理想のの迎え方は、もっと嬉しそうに泣いて、泣きながらも笑っていてくれたのに。
何であんな表情して出て行ったのかは、解らなくもないけれど。解らなくもないが、何で逃げたんだあの女は。玉は悪態をつき、ため息を吐いた。

「…本当、に。面倒くさい人ですね、全く」

そう呟きながら玉はが出て行った扉に向かって走り出した。



「っ、

足の長さが違うから、がどんなに頑張ろうと直ぐに追いつく。幾ら玉がひょろっとしていて文官で運動不足だとしてもだ。しかも泣きながらのせいかもの凄い遅かった。
が一室の扉を開けて入ろうとしているところで、の腕を捕らえた。驚いて振り返ったの顔には、やっぱり溢れ出る涙ばかりだった。
は玉の顔をまじまじと見つめて、更に顔を歪めて泣いた。くしゃくしゃの顔というのは、こういうことだろうか。可愛い顔なのに。泣かしているのは確実に自分のせいなのだろう。玉は何故か冷静にそんなことを考えていた。
実際頭の中を占めているのは、何とか泣き止ませたいという思いが大半だったのだけれど。

「は、離して、玉」
「何でです」
「なん、でもっ…今、話せる状態じゃない、しっ…」
「……」
「ほんと、に、離し、てっ…。ごめ、」

ぼろぼろと泣くを何とも言えない気持ちで見つめながら、玉はを掴んでいない片手で室の扉を静かに閉めた。通路で修羅場のようなことはごめんだ。それをの家人に見られるのも嫌だった。そう思ったらが入ろうとしていた室に一緒に入っていた。
静かに扉を閉めたせいか、はその事実に気付いていないようだった。玉はそれに気付いていたけれど、そのまま何も言わず、が気付かないならそれはそれで良いと勝手に思った。…こんな形で、の寝室に入るのは玉の美意識に欠けるが今回はしょうがない。多分しょうがないことだ。
初めて入るの寝室だったけれど、まじまじと見ている余裕はなかった。目の前の愛しい人は泣き止まないし、顔を真っ赤にしている。緩く掴んでいる片腕は微かに震えて、が流す涙は彼女自身の衣を濡らしていた。

「し、仕事も忙しいんでしょう?幾ら近所で知り合いだからって、忙しいのに、来なくても、別にっ…」
「……私が、そういう人間だとでも?」

そう呟いても、は顔を上げずに俯いたまま震えていた。ああ、耳まで赤い。泣き顔を見られたせいか、それとも。…自分と逢ったせいだったら、嬉しいのに。
の腕を緩く掴んでいた玉の手は、いつのまにか添えられるだけになっていた。本当なら抱きしめたい。夢の中のように、抱きしめてみたい。
抱きしめて、愛を囁いて、…彼女と両想いに、なりたい。

「玉、本当に、今日は、ごめん、」
「…いいえ、帰れません。次はいつ来れるか解らないのでね」
「っ、でも、別に何も、言うことなん、て、」
「ないと言うなんて、思ってるんですか?」
「…っ」

だって、ないでしょう?そうは涙を流しながら思った。これ以上こんな汚いぐちゃぐちゃな泣き顔を見られたくなかったし、情けなさで頭の中はいっぱいだった。
まさか顔を見ただけで泣くとは。自分自身、玉のしっかりした姿を見ただけでこんなことになったことに驚いた。嬉しくて堪らないのに、でももう玉には別の人がいるのかもしれないとか、いなかったとしても何で直ぐに逢いに来てくれなかったのかとか、そういう考えが出てきて色んな感情がごちゃ混ぜになって気付いたら泣いていた。
泣いた事実に気付けば、次いでこんな顔を見られたくないという微妙な乙女心だった。安心と安堵と、嫉妬と悲しみの顔なんて、汚すぎて見せられない。自分の感情が理解できている分、泣き顔は酷く醜いのだろうと思った。
逃げられないのなら、顔を背けたり俯かせるしかなかった。玉が自分の腕を掴むその手は、大きくてしっかりしている。じんわりと温かさも伝わる。そのことに気付いて何故だか更に泣きそうになった。

「話すことなんて山ほどあるんですよ。…まあとりあえずは、先にこれだけ言っておきます」

そう言って玉はに添えていた腕を放した。もう逃げることはないとの動きで判断したからだ。まあ逃げてもここはの室なので精々壁際辺りまでだろう。
未だ俯いてこちらを見ないの頭を見ながら、玉は一息だけ大きく吸った。

「春の除目で、異動が決定しました」

玉の言った言葉を理解して、直ぐには頭を上げた。玉はいつものように真剣な面持ちでこちらを見下ろしていた。けれども冷たい眼差しでも声音でもなく、いつも通りの玉だった。いつものように、ただただ真剣に前を向いている玉だった。
の好きな、玉だった。

「…は。…え…」

言われてることは解るのに、よく解らなかった。感情が追いつかない。
帰ってきて、また、直ぐに、…異動?また、居なくなるの?

(何、…なに、それ。そんな)

凄い、寂しい。
思った言葉は玉が逢いに来る前にも胸を支配していた感情だった。寂しい。どうせ、また置いていくんでしょう。仕事人間だから。
どうしよう、それは、また…また、勝手に待っていても、良いのだろうか。
が言葉にならない声を漏らしていると、玉は遮るように口を開いた。

「良いから、最後まで聞きなさい。…異動はもう決まったことですし、私も実力や経験値云々で色々考えることはあるので不満もないんです。決定事項ですから、春からはまた別の地に就任します。次の工部侍郎に引継ぎをして直ぐに荷物を纏めて、出立しなければなりません。その後就任しても暫くはごたごたしてるでしょうから、…その後」

そこで一回玉は言葉を止めた。
は玉の言ってることを漏らさないように聞いていたし、今は玉から逃げたいという羞恥心などはあまりなかった。目じりに溜まっていた涙は少しだけ流れているけれど、視界はぼやけていなかった。しっかりと、目の前の玉の姿が見える。
何事にも真面目な、綺麗なものが好きで格好付けな、が今まで逢ってきた男の人の中で一番素敵で格好良いと思っている玉が、いた。また、玉は男の人の顔をしていると、はそこで気付いた。碧州に行く前にうちの邸に来たときと同じ、男の人の顔。あの時は直ぐに何故か女々しくなってしまったけれど、今回は前よりもずっとずっと、どきどきするくらい格好良い男の人だった。
玉の眦が微かに赤くなっていることには気付かなかった。玉は、一拍だけ言葉を止めて、軽く息継ぎをして続きの言葉を吐き出した。

「…その、後、あっちで落ち着いたら、…落ち着いたら、貴方を呼びます」

少しだけ歯切れの悪い玉の言葉を、きちんと全部は聞いていた。混乱しているはずなのに頭の中は妙に冷静だった。
それでも、次に玉から言われた一言で文字通り頭の中が真っ白になった。

「…呼びますから、そのとき、結婚しましょう」



11/09/16
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