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「――院長に?」
「先の話だけど、新店舗出したくてさ。出すならどっちかの院長任せたいなって」

勤めている治療院のオーナー兼、院長に呼ばれて話を聞けば、そんなことを相談された。
そうは言っても新店舗を出すのにいい場所を見つけたらの話だし、が断っても他のスタッフもいるのでちょっと考えてみてほしい――程度ではあった。いい場所が見つからなければこの話も流れるので、場所が見つかってから本気で考えてもいい程度の軽さだった。ただ、見つかったらすぐにでも出したいからある程度は考えておいてほしいと言われる。

(……流石に、この話受けたら村に戻れなくなっちゃうなあ)

家に帰ってから改めて考えたときに、村を出るかどうかを考えなければという結論になった。
一人に、話さなければならない。
手に力が無意識に入ってしまう。去年の夏祭りのあと、一人に逢えないまま一年経ってしまっている。冬はの仕事の都合で村に帰れず、一人もの治療院に来なかったのでハンカチのお礼も満足にできていないままだった。一人が治療院に来なければ、電話で声を聞くこともない。から電話をするような用事もなく、そもそも診療所の忙しさや一人の時間を使ってしまうことを考えてしまい、から電話をする勇気が出なかった。こんなことならハンカチだけでも先に渡しておくべきだったと今さらながらに後悔してしまう。
次の盆はちゃんと帰るつもりなので、そこで話をするしかない。

(……ちゃんと、話をして……)

そうして、どうなるのだろうか。
三十五歳までとは思っていたが、正直なところ一人とは何もないままその年になると思っていた。それほどまでに一人とは微妙な距離だったし、一人とそういう話をしないで来てしまっている。村の人たちが早く結婚しろとは言ってくるが、一人がそれについて言及してきたことは一度もない。
そもそもが院長になるかもしれないからどうするか、などという相談でいいのだろうか。そんな掟なんてまだ覚えているのかと言われたら、――言われたら、はどうすればいいだろうか。笑って話を流して誤魔化せるだろうか。
去年の夏祭りにちょっぴり期待してしまったのに、声も聞かないまま一年経っている。一人ももしかしたら自分と同じ気持ちかも……という思いと、この一年逢いもせずに経っているのに、何て都合のいいことを考えているのかと自嘲してしまう。
一人の優しさが、そういう類の気持ちだったら嬉しいという自分勝手な想いだった。一年も逢っていないのにそんなことを考えてしまう。
とにもかくにも次の夏にはちゃんと村に帰って、何とか掟の話をするしかない。

(渡そうと思ってたハンカチと、差し入れと……)

準備をしながら、以前の差し入れをからとは言わずに一人が富永に渡していたことを思い出してしまう。入れようとしていた自分の着替えを握りしめてシワが付いてしまった。
「もしかしたら」なんて考えても、やっぱり自分のことを一人がそんな風に見てるわけがないと、思ってしまう。色んなことを思い出してしまって、荷造りの手が完全に止まってしまった。

「よく解んないんだよなあ」

一人の優しさと、一人の行動がよく解らない。期待をしても一人の行動で打ちのめされることが多いので、期待をするのがやはり駄目な気がした。
ため息を吐きながら、これじゃあ終わらないからと荷造りの手をのろのろ動かす。
一人にお礼として渡すハンカチと、去年巻いてもらったハンカチも荷物に詰める。去年一人から貰ったハンカチは、もうお守りみたいな物だった。見れば一人を思い出し、優しくしてもらったことを忘れずにいられる。ニヤニヤしてしまうのは許してほしい。一人から貰えた物が、嬉しいのだ。
荷造りを終えれば、あとは村に帰るだけである。不安と期待と、――村を完全に出るかどうかを考えながら、はその日眠りについた。


***


快晴だった。山なので天気が変わりやすかったりもするが、今日は一日このままらしい。暑くて汗をかきながら村に入って歩いていく。
の実家に着いて荷物を置いて、とりあえず麦茶を作り出した。換気をしたいので縁側の雨戸や窓を開けていく。二階なども全部開けたいが、先に診療所に行って一人の予定を聞いておきたい。緊張し続けるのも嫌なので早めに済ませておきたかった。その割に村に帰ることを伝えていないので小心者というか、意気地なしでもある。

「うーん、よし」

先に一人の予定を聞いて、一旦家に戻ってきてから掃除やら何やらやろうと決める。二階の窓や雨戸はそのまま、麦茶を煮出し終えたので冷ましてる間に診療所へ向かう。

汗をかきながら診療所へ向かえば、全く知らない女の人がいた。

「診察ですか? ご予約は頂いてないみたいですが……」
「え、あ……。――あっ、し、診察じゃなくて、村に戻って来たんで、挨拶に……」
「そうなんですね。先生たちもうすぐ往診から帰られると思うんですが」
「あ……、いえ、あの……」

綺麗な看護師さんだった。綺麗な、女の人だった。細身で、女性らしくて、笑顔が素敵で、物腰が丁寧だった。診療所のことをもう解ってるような動きや口ぶりで、それなりの時間働いているのが伺える。
急に口が乾燥してきた。一瞬、自分が何をしに来たのかも忘れてしまったが、手にある荷物の重みで辛うじて思い出した。

「差し入れを持ってきただけなんで……、良ければ皆さんで食べてください」
「まあ! ありがとうございます。先生にではなく皆で頂いて良いんですか?」
「勿論です。男性が多いから、大きめ買ってきたんで……」

手が震えてる気がする。ちゃんと喋れているだろうか。声がちゃんと出ているだろうか。
顔が上げられない。目線をこの看護師さんに合わせられなかった。汗で自分の化粧は落ちているだろうし、は自分の容姿が平凡なのも解っている。
こんな綺麗な人に、汗をかいて対面している自分が何だかすごく恥ずかしかった。
綺麗な女の人は、手も綺麗だった。差し入れを渡したときにそんなところも見えて、自分の節くれ立っている手がみすぼらしく見えて恥ずかしくもなる。医療関係者なら手洗いと消毒で荒れてる人も多いと聞くが、この人は羨ましいほど綺麗な手だった。
もうすぐ先生たちが帰ってくると引き止められたが、この人と一緒にいてどんな話をすればいいのか解らず、断ってしまった。

(結婚するんです――なんて言われたら、どんな話すればいいのか、解んない、し)

言われてもいないが、言われたら一番困ることを考えてしまう。何とも言えない顔で笑っておくしかなく、名前を聞かれたので名字だけ答えておいた。
診療所の玄関でまた看護師さんに頭を下げる。深々と下げ返されて、ちょっとだけ居心地が悪くなった。
何度見ても、綺麗な看護師さんだなあと思ってしまう。

(……こんな、綺麗な看護師さん、雇ったんだ)

静江おばさんの顔が頭に浮かんだ。あの人は看護師業も、介護も、オペの助手も、全てをこなしていた。この人もそうなのだろうか。だからこそ一人は女性でもこの診療所に置いているのだろう。知らない人だから村の外から来た人だろうし、それでこの村だけでなく診療所にもいるなら村の色んなことも知っているはずである。

(また、教えてもらえない)

一人に聞かなければ教えてもらえないのだろう。会っていなかったのだから聞けなかったし、教えられなかったと言われたら、それまでだった。
教えてもらえない。富永が来たときもそうだった。こちらが聞かなければ話してくれなかった。村井さんが帰ってきたときも、こちらから声をかけたからだ。聞いたところで教えてもらえないことも多いけれど、聞かなければもっとたくさんのことを教えてもらえなかったのだろう。俊介のときがいい例だった。自分が半分村を出ているからかもしれないが、それにしたって俊介の件はやはり教えてもらえなかったのはそれなりに堪えた。
そうして、こんな綺麗な人が診療所に来たことも教えてもらえない。
女性を診療所に入れることをヨシとしたのなら、つまりはそういうことなのではないのだろうか。だって村の外の人間に、診療所の留守番すら任せてるのだ。それができるくらいの医療知識があって、それができる覚悟のある人なのだろう。ただの看護師さんに一人がそこまでやらせるとは到底思えない。外から来た女性に、村のことを大なり小なり教えて診療所に勤めさせて、それでただの看護師と言われるほうが理解に苦しむ。
家までの道を歩きながら、とりとめのないことばかりがの頭を巡っていく。
診療所が見えなくなるほど離れて、またあの綺麗な看護師さんを思い出せば、急に恥ずかしくなってきた。
恥ずかしい。この程度の立場で「もしかしたら」と思っていたことが、とても恥ずかしかった。一人の優しさはやはりただの医者としての優しさなだけで、それを勘違いしてしまった自分が滑稽でしかない。
差し入れのお菓子は渡せたけれど、一人に渡す予定だったハンカチは持ってきてしまった。こんなものどうやって渡せばいいのだろうか。
昔のことも思い出してしまう。高校の頃に自分が聞いても一人は言葉を濁して教えてくれなかったことを、また鮮明に思い出してしまって苦しくなった。自分は何も教えてもらえる立場ではないのが、今も昔も変わらない。
酸素が薄いなと思った。急いで歩いてるわけでもないのにどんどん息が上がっている気がする。家に早く帰りたいと思っているが、足がそこまで上手く動かない。それでもできるだけ早く家に帰りたかった。
涙が零れないように頑張るのが精一杯だった。


***


気づいたら家に帰ってきていた。診療所からこの家までの間に村の人と会わなかったのでホッとした。どんな顔をしているのか解らないので、誰にも会いたくない。

「……あー……」

苦しい。苦しい。苦しい。
こんなにも悲しくて辛いのに、それでも一人が好きな気持ちが消えなくてとても悔しくて苦しい。
こんなにも好きでいるのに、結局自分ではないのだ。
結局自分は、ひとりきりなんだ。
ひとりきりでここまでやってきたんだから、このまま最期までひとりでいるのかもしれない。

「寂しいなあ」

子どもの頃からずっとこの気持ちが消えない。けれども村の誰かに言ったところで迷惑になるので、高校にいた片親の友達以外に言えたことがない。
寂しい。寂しい。さびしい。母親がいなくて寂しい。父親もいなくなって寂しい。ひとりきりでこの大きな家で過ごすのが寂しい。
一人と結局、一緒になれなくて寂しい。
ひとりで泣いているのも、寂しい。
このまま村を出て行くのだろう。寂しいけれどもう村に居続けるほうが辛い。一人の医者以外の顔を見るなんて、どんな顔をして見ていればいいのだろう。

とりあえずで作った麦茶を眺めながら、涙が止まらなかった。冷ましたら冷蔵庫に入れないと、と思いながら全然身体が動かない。家の掃除だってしようと思っていたのに、身体が重たくて何もする気にならなかった。
両親の墓参りだってしないといけない。

(……墓参りだけで、良いんじゃないかな)

もう村に戻ってくることも、ない気がする。売れないだろうけれど、家を売ったほうが良いだろう。持っているのもだいぶ負担だったので、これなら手離したほうが自分の気持ちとしても楽だった。
掃除も、する気が起きない。
もう無理だと思った。一人を嫌いになったわけでもないのが本当に悲しかった。嫌いになれたら良かったのに、そんな気持ちは欠片もない。

(でも何にも、教えてもらえない。……お菓子、持っていっても、私からって、言わないし)

今までのことを思い出していたらどんどん涙が零れてくる。自分の立ち位置なんてその程度で、一人にとってそのくらいの人間なんだと思えば胸が締め付けられた。だって俊介が帰って来たことすら、教えてもらえなかった。あの看護師さんに名字を名乗っても富永のときのような反応がなかったということは、看護師さんに自分のことを話していないのだろう。

(――こんなに、好きなのに)

気持ちだけだったら年季が入っていてとても大きい自覚がある。自分を助けてくれた人で、自分が少しでも助けられたらと思った人だった。
でも好きな気持ちだけで人生はやっていけない。結婚だってそうだろう。
一人が結婚してもいいと思える相手を見つけて、その人と家庭を築いていこうと思ったのなら、は何も言えることはない。縋れるような立場でもなければ、結局告白するような勇気も出ない。掟に胡坐をかいていたのはだ。それがなくなったのなら、素直に引くしかなかった。
悲しい。苦しい。寂しい。
いつも辛いときは一人が助けてくれた。今は、一人の顔は見たくない。見たら揺らいでしまう気がした。

(……村、ちゃんと出よう)

村を出て、家を売って、それで、――それで、ひとりで、生きていくしかない。
帰ってこれる場所がなくなってしまう。けれどもこの家をずっと持っているのも負担が大きい。
一人が、他の人に笑っているところなんて、見たくもない。
あんな綺麗な人の隣に立つ一人を見たらちゃんと諦められるのかもしれないが、目の前で泣き始める気がするので絶対にその場面を見たくなかった。そんなみっともない姿を一人にだけは見せたくない。泣いた理由だって問い詰められるだろうから、何も見ないで村を出たかった。
涙が止まらなかった。子どものように声を出す泣き方はもう覚えていない。震えながら涙を流して、引き攣ったような声が細々と出る。
色々しなければいけないことは思い浮かぶのに、気づいたら帰省したときにいつも使っている部屋で蹲って泣いていた。早く村を出ようと思っているのに、こんな顔で出て行くこともできない。

治療院で院長になる話が来ていて良かった。まだ自分の居場所が残されてて、何とか踏ん張れている自覚がある。誰かに必要とされてるから、辛くてもまだ次のことを考えられる。
未来のことを考えて少しでも気分を変えようと思ったけれど、勝手に涙が出てきてしまう。拭っても止まらず、引き攣って泣いているせいで喉も苦しい。
今日はもう何も考えたくない。けれども一人に助けてもらったことや、診療所で一緒に過ごして楽しかった思い出が浮かんできては、さっき見た綺麗な看護師の人を思い出して顔が歪む。

去年一人に貰ったハンカチを握りしめて、もうこれも捨てなければ、と思うが踏ん切りがつかない。一人のあの優しさまで捨てたいわけじゃない。けれども見れば思い出してしまう。やっぱり新しいハンカチも置いてくれば良かった。未練しか残らない。

辛くて辛くて、泣き続けていたら目を閉じて横になっていた。