「が来ていたのか」
「え?」
「この菓子折りを持ってくるのはだろう」
「えっ……、あっ、あの方がさん!」
「あっ本当だ。僕このお菓子好きなんですよねー」
「中村さんって仰るんですね。名字知らなかったので……」
富永と共に出ていた往診が終わって診療所に戻り、居間のテーブルにある菓子折りを見て一人は目を見張る。一也は村に来ている子どもたちと遊んでいてまだ帰ってきていない。
戻ってくる途中で見たの家は窓が閉まっていたので、帰ってきていたとは気づかなかった。
話を聞けばやはりが戻ってきているらしいので、出逢えなかったことを残念に感じる。待っていてくれれば良かったのに、とすら思ってしまった。
一年も逢えていない。の治療院に行こうとは思っていたが中々予定が噛み合わなかった。一也を本格的に育てる方向になってから、知識のない人間にどこから教えるべきか取捨選択していると時間が全く足りなかった。並行してシャドーも行っていくので村の外に出ている時間を取りにくくなっていった。
逢いたいとは思っていても、の治療院に向かう時間が取れなかった。の予約も取れなかったのがある。電話しても別のスタッフが出ての声すらこの一年聞けなかった。そこで今年もまた帰省の電話すらなかったことに憤るが、もう帰ってきているなら考えるだけ無駄だろう。
(今年も夏祭りに……と思ったが少し先か)
今年の夏祭りは今週末なので、週の始まりの今日にが帰って来たのならいつもの帰省期間を考えると難しい。一日だけなら何とか伸ばせるだろうが、流石にそれ以上は厳しいだろう。
とにもかくにも、顔を見ておかなければ。往診のときの白衣を脱いで、次はマントを羽織った。
「すまん、また出る」
「かしこまりました」
「ゆっくりしてきて良いんですからね~」
富永の含みのある言い方には何も返事をせずに、診療所をまた出て早足にの家に向かった。
「……?」
の家に近づいて、一人は首を捻る。正面から見てが帰ってきている気配がない。
はこの家に帰ってくると換気のために窓を開けているので、見た範囲で開いていないのが不可解だった。診療所に行って墓参りに出ているとしても、雨戸が開いてないことが不思議でしかない。
とりあえず家のチャイムを鳴らすが、反応が全くない。
何だか嫌な予感がして、裏に回り込む。縁側は雨戸が開いており、それだけで少しばかりホッとした。
「……留守か……?」
勝手に庭を横切り歩いていれば、窓が開いている部屋があった。
が、横たわっているのが見える。寝ているのか倒れているのか判断がつかず、窓を開けて入り込んだ。
「……っ、」
近づけば息をしているのは確認でき、パッと見は寝ているだけに見えた。
声をかけて肩を叩けば、はすぐさま目を覚ます。詰まっていた息が吐き出されたのを一人は感じた。肝が冷えるのは久しぶりだった。
の手が握りしめているのが、記憶違いでなければ去年一人が渡したハンカチだった。それだけのことでドキリとする。
の目がこちらに向いた。
「……かずと」
「すまん、勝手に入った。倒れていたわけではないな?」
「ん……」
寝起きのせいか、無理矢理起こしたからか、緩慢な動きでが起き上がる。こんなときにの色気を感じてしまって一人は目を逸らしたくなった。もしも体調不良だったならどんなサインも見逃したくないので結局目は逸らせなかったが。スカートで寝転がっていたせいで、の脚が大きく見えているのは視界に入れないようにしている。
「……疲れて、寝てただけだよ」
「そう、か。熱は……体温計はあるか?」
「いや元気だよ。昨日の疲れが残ってるだけだし、寝れば元気になるから一人帰って」
起き上がってからは一人を見ない。目が覚めたときだけしか視線が交わらなかった。部屋のどこを見ているのか解らない状態で、はそうやって言葉を続ける。寝起きだとしてもいつもと全く違う雰囲気のを見て、一人は何とも言えない気配を感じていた。疲れているだけなのか、そこが気になってしまう。
「熱中症だったら、あとから体調が悪くなることもある。掃除も手伝ってやるから、まず――」
「ああ、掃除も、もういいよ。大丈夫」
が、温度のない声を続ける。
「……家、売ろうかなって、思ってるし」
「何……何を、言っている」
「元々この家持ってるのしんどかったし。治療院で院長にならないかって話出ててさ。いい機会だしこの家手離してさっさと身軽になりたいなって」
「……何、を」
が何を言っているのか、耳に届いているのに理解ができなかった。
家を売る、院長の話。それを、受ける気でいることが一人には衝撃だった。一体何を言っているのか解らないのに、続きの言葉が何となく解ってしまう。聞きたくなかったのに、は戸惑いもせずに口を開いた。
「村、ちゃんと出ようって」
「――っ……」
はどこを見ているのか解らないままそう続けて、一人はすぐさま声が出せなかった。意味が解らない。
本気で、村を出ると言うのだろうか。
自分はまた置いていかれるのか。
「……村の、掟を、忘れたのか」
思わず出たのはこの言葉で、その瞬間にの顔が歪んだのが解った。
――また、間違えた、と感じた。
こんなことを言いたいわけではないのに、けれども自分がを繋ぎとめるのはこの言葉しかなかった。
が、吐き出すように言葉を放つ。
「神代の男児に近しい年の女が嫁ぐってやつ? 一人に子どもができればいいだけでしょ。……私じゃなくても、いいじゃん」
村の人に結婚の話をされて了承していたのは、何だったのか。掟がやはり嫌だったのか。それなら、何故もっと早く、言ってくれなかったのか。そんな気持ちになってしまう。
もう、諦めることなんてできないのに。
「どうせ、処女貰っちゃった責任感でしょう。さっさと忘れなよ」
忘れられないから困っているのだ。そもそも、それならば自分が責任を取ったって、問題もないだろう。
「――責任感だなんだ言うのなら、俺が、責任を取るので、いいだろう」
「…………」
の顔がずっと歪んでいる。そんな顔をさせたいわけでもないのに、何をどうやって言えばいいのか一人は解らない。目線も合わないことがこんなにも不安になる。
気づいたら、が泣いていた。
「泣くほど嫌か」
頬を伝う涙を拭うこともできず、一人はそれでも彼女から離れられない。ずっと隣に立ってくれるならこの女がいいと、高校生の頃から思っているのだ。重たすぎると一人自身思うが、こればかりはどんな女性と接しようと、以上に想える女性が出てこなかったのだからしょうがない。
「……あの看護師さんいるなら、別に私じゃなくたって、いいじゃん」
「何でそこで麻上くんが出てくるんだ。――……俺は、が、いい」
喉が渇いて上手く言葉が出てこない。声がいつもよりも小さい気がした。
誰でもいいなんてことはない。掟がなくたってがいい。結婚ができなかったとしても、が村に戻ってくれるならそれだけでも良いとすら思える。
の顔が、さらに歪む。が泣くのを見たのは抱いた夜しかない。あのときとはまた違う顔で、は泣いている。
「……村の人間との子どもが必要なら、さっさと作ってよ。産んだら村出てくから」
がそのままポツリと「どうせ、抱けないでしょう」などと続けた。さっきからの言っていることが理解できなくて、全く頭が働かない。何故子を産んだとしても村を出て行くと言うのか。
色んなことを考えはしてもまとまらず、それでもただが村を出て行くことだけはどうにかしたかった。
引き留めたいのに、一人はを掟以外で引き留める手段がない。こんなにも無力を味わうのは母親のとき以来だった。
どうして、みんな置いて行くのか。
「何故、何でお前は、俺を置いていこうとするんだ……」
もう諦められない。できるならには傍にいてほしい。傍にいてくれるなら孕ませてでも、と考えたこともあるが、はそれでも出て行くと言う。
だけは、共に未来を歩んでいけたらと、思っていたのだ。出会いも別れもある中で、だけは、共に老いていくことを願ってしまう。傍で過ごすことを求めてしまう。愛でもあるし恋でもある。情念でもあり執念でもあり、執着でもある。感情がない交ぜ過ぎて一人自身よく解っていない。
置いて行かないでほしい。傍にいてほしい。
は泣き止まない。一人が渡したハンカチをずっと握りしめている。
「一人と一緒にいたって辛い」
泣きながら言われて、息が止まるかと思った。
「一人は、友達が来たことも教えてくれないし、わた、私が、お菓子送っても、私からだって、言ってもいないんでしょ……!」
しゃくり上げながら、が続けた。一人は何も返事ができない。
「何にも教えてもらえないし、ただ変に気を遣われてるだけで、一緒にいたって、そんなの、辛い。結婚なんて、しなくていいじゃん。子どもは産むから、もう、私は村、で、出てく。もう何にも、見たくない」
自覚があった。には、笑っていてほしい。だから高校の頃から、必要のないことは言わないことが多かった。笑っていてほしいから、煩わしいことは言わないようにしていた。
それだけではの言っていることに言い訳もできない。明確に、俊介が来なかったことも、菓子折りのことも、自分の意思でやってしまった自覚がある。
手に思わず力が入る。これ以上間違いたくなかった。多分ここを失敗したらが本当にいなくなってしまうのが解る。口が渇いて貼りついてるのを、何とか引きはがして声を出す。
「……違う」
「何が!!」
の声が、悲痛だった。必死なのも解る。自分が、そうしてしまった。
「俊介のことも、菓子折のことも、全部俺が、……俺が、教えたく、なかっただけだ」
「っ、だから!! 教えるほどの人間でもないんでしょ!? いーよもう下手なこと言わないで! さっさと体外受精でも何でもいいから子ども作ってよ村出てくから!」
「違う」
「だから何が!」
「俺が、俊介と富永に、のことを教えたくなかっただけだ。……が、悪いわけじゃない。俺が、……俺が」
『もうちょっと素直になったほうが良いんじゃないですかKは』
富永の言葉を今さらながら噛み締める。子どもの頃から自分の心情を言うのが苦手だった。村の面々が汲み取ってくれるのが大きく、甘えていたのだと今なら解る。にも、そうやって甘えていた。
許してくれると思っていた。受け止めてくれるとも思っていた。は、何だかんだ一人の隣にいつも来てくれる。ただただ、そのを、独り占めしたかっただけだ。
「ただの、子どものような、──嫉妬と独占欲で、言わなかっただけだ」
こんなことを言うのもどうかと思うが、自分の行動を言葉にするなら、これしかなかった。他の人間には全く抱かない感情を、には明確に抱いている。
ただの村人同士では収まらず、ただ掟だけの関係も嫌だった。誰よりも傍にいることを、望んでいる。誰よりも近くにいたいとも、思う。
「…………うそだ」
やっとと目線が合って、少しだけ一人はホッとする。このまま顔を向けられずに追い出されるかとも思っていた。
がそう言うことも解る。今さらこんなことを言うのが遅いのも一人は理解していた。それでも今言わなければ、また後悔することになる。
「嘘を吐いてどうする」
「一人が、そんなこと」
「好きな女を、他の男に教えたくない気持ちぐらい、俺にもある」
「……は」
が一瞬驚いた顔をして、何故か嫌な顔をしてまた吐き捨てるように口を開いた。
「言い訳にしても、タチが悪い」
「……待て、まさか気づいていなかったのか?」
そんな馬鹿な、と思ったが自分の気持ちが通じていなかったのならの態度も言い分も理解ができてしまう。
そんな馬鹿な。
「……通じて、なかったのか」
「何……」
「俺が、治療院に通うのも、家の掃除も、村での送り迎えも、ただの村の人間に、やると思うのか」
は怪訝な顔をして一人を見ている。そんな顔をしたいのはこちらのほうだと、一人は思う。この女本当に何も気づいていなかったのか。
「責任感で籍を入れると、そう言うと思っているのか」
「……言ったの一人じゃん」
「が言うからだろう」
「はあ? いや……え?」
「俺は、以外を女として見ていない」
「……は」
「籍を入れたい。……共に、生きていきたい。他にどう言えばいい?」
他にどう言えば、は村にいてくれるだろうか。傍にいてくれるだろうか。どう言えば自分の気持ちが届くだろうか。好きという言葉ではもう言い表せない。ドロドロしすぎたこの感情を、そんな透明な言葉で伝えるには違う気がしている。愛情ではあるけれど、この執着心をそう表していいかも解らない。
ただただ誰よりも、を求めているのは自分だと、それだけは言える。
この村にはこれからも色んな人が来るだろうし、色んな人が去っていくだろう。けれどもだけは、どうか隣にいて笑っていてほしい。明日の約束がなくても共にいてほしい。何も言わなくてもの隣に立てる立場が欲しい。が無条件で頼れるような関係になりたい。
この距離感のままでも生きてはいけるが、に何かあったときに、後悔することがないようにいたい。
「……っぅ……」
が、泣き止まない。
さっきよりも勢いよく泣き始めて、一人は眉間にシワが寄ってしまう。困らせてしまったのか、自分ではやはり駄目なのか。
それでも、が握りしめたままのハンカチに、希望を持ってしまう。
がしゃくり上げながら、声を出す。何も聞き漏らしたくなかったので、耳に神経を集中した。
「か、一人のこと、好きでいて、いいの……」
「――っ」
のその告白に、胸が震える。聞き漏らさなくて良かったとすら思った。聞き間違えでもない。
けれどもいいかどうか、それを自分に聞くのか。
「その言い方は、俺の都合のいい回答しかできんぞ」
「う、ぐすっ、わたしにだって都合が、いいよ!!」
「……そうか」
ならそれで、いいだろう。そう伝えればが本格的に泣きじゃくってしまう。
は、こうやって泣くのか。そんな風に見てしまうが、どうすればいいのか解らず気持ちとしては右往左往している。触れていいのかも解らないまま、手が中途半端に上がってしまい、下ろせもしない。
「、少し触るぞ」
「ぐす、……ぅ、え?」
泣きながらは呆気にとられて、上手く返事ができていない。嫌なら殴ってくれればいいと、一人は思う。嫌がりもせずに自分に抱かれたあの日を考えれば、逆にそちらのほうが安心できる気がする。次の日の孤独がそれなりにトラウマになっていた。
の背に手を乗せて、ゆっくりと撫でる。抱きしめてもいいか考えるが、どこまで近づいてもいいか解らない。普通の男女はどうやって距離を詰めるのか今さらながらに考え始めた。富永に言わせればとてつもない亀の歩みなので、普通はもっとスマートにパートナーへ触れることができる、らしい。に嫌がられなければそれで良く、が触れていいと言うのならこれからは遠慮がなくなるのだろう。
「……ぅ、う、ぐすっ」
「嫌じゃないか」
「ヤじゃない……」
「落ち着いたら泣き止んでくれ」
「……しばらく、無理……」
「そう、か」
「い、一度泣くと、ぜんぜん、泣き止めなくて、ごめ、……ぐずっ」
「そうなのか」
全く知らなかった。その割に抱いたときはそこまでではなかったので、あのときは本気で泣いていたわけではないということだろうか。流石に今この場で聞けないが、あの夜本気で嫌がられていたわけではないのかと、そんな風に考えてしまった。
が泣くときは、ひとりでずっと、こうやって泣いてきたのか。そう思ったらの背を撫でる手に力が入ってしまう。
一人は自分の体勢を変えて、を抱きかかえるように足を動かした。の頭を自分の胸元に寄せて、背中や肩をゆっくり撫でていく。
「なら、気の済むまで泣いていい」
やっとそう言える立場に来たのだから、が泣き止むまで付き合うだけだった。