結局今回の冬は村に帰れなかった。
仕事の休みは取れたが、出張依頼が入ったからだ。ご自宅にお伺いして治療する出張は、足の悪い人や年末年始でどこもやっていないときに呼ばれたりする。出張分の金額を貰うのでそこそこの金額になるのだが、これが意外と使われる。ご年配はお金持ちだな~と思いながらもホイホイと依頼を受けてしまった。
そうしたら村に帰るのを逃してしまったわけである。流石に大晦日と元旦は休みを確保したが、掃除のためだけにその時期帰るのは嫌すぎたので帰るのを諦めた。
そこからさらに時間が経ってしまい、どこかで帰って掃除しないとな~と思いつつ、このままだと夏なんてすぐだからもういいのでは?とすら考えてしまっている。
一人に逢いたいけれど、逢うとまた想いが募ってしまう。今さらすぎるのだが。好きになってからもう何年経ったかもすぐには思い出せないほど昔なのだ。きちんと男の人として好きになったのは高校生の頃からなので、もう10年以上経つ。おばさんになってしまったので、このまま独りでお婆ちゃんになりそうな予感もある。
逢えば思いが降り積もる。会わなくても、気持ちが向かってしまう。
定期的に会ってメンテナンスをしないと、あの人の身体は壊れてしまいそうで怖いというのもある。
自分の人生、もう神代一人で占められている気がしている。子どもの頃から洗脳のように一人と結婚すると思い、一人の隣に立つと思っていた。大人になった今、それを信じているわけでもないが、あの人の血筋を絶やすのはしたくないと考えている。
(流石に誰かと結婚するってなったら連絡くれそうだから、まだ本当に相手いないんだろうな~)
一人が結婚しないのなら、そろそろ色んな人から自分がせっつかれるであろう。何せ高齢出産の字が見えてきている。自分が35歳までに一人の子を孕んで産めば、まあそれでいい気がする。育児自体は村の皆でやってくれるだろう。
子宮と、母体だけ提供すれば、いいのではないだろうか。
絶対一人は責任を感じてしまうだろうから、そんなことになる前に一人が早く好きな人でも作って結婚してくれればなあと思う。それで相手が妊娠できなかったらまたお鉢が回ってくる可能性があるが、その時はその時である。
ちなみに一人ももお互い不妊症検査は済ましてある。どちらも異常はないので運さえ味方につければ妊娠はできるはずである。その検査をが村を出る前に済ませている辺り本当に異常だよなと、は村の外に出てから改めて思う。
(いやでもなあ。うーん……一人って私のことまた抱けるのか?)
村を出る前に致してしまった一夜は、完全にお互いが若い故の過ちであろう。いや自身は好きな相手だったので良かったのだが。痛かったけれど。
今の一人が、今の自分を抱けるのか?
(もうこんなおばちゃんだしなあ。あの人は全く変わらず格好良いのに)
一応接客業をしているから同年代に比べたらまだ少し若くは見えるかもしれないが、出産も子育てもしていないからも大きいし、それでもやはり10年前に比べたら年を取ったと自分自身思う。30代・40代の人達に怒られそうだが、20後半なんてもうおばさんだし細胞は衰えてきているんだから仕方がない。見た目も中身もそんなに変わってはいないが、確実に年は取っているのだ。
大人になった一人が、自分に食指が動くとは思えなかった。
こういうことを考えていると気分が落ち込んでしまうので、強制的に考えるのを止めた。なるようになるしかない。一人が子どもなんて要らないと言えば、それで終わるかもしれないのだし。
とりあえず、実家の掃除は諦めて、夏にたくさん頑張ろうと意気込んだ。
***
そんなことを考えた数日後に、一人から連絡が来て治療院にやって来ると言うのだから驚きである。
電話越しに遅まきながら賀正の挨拶をし、街に下りるついでに治療を受けに来ると言う。いつも通り予約を取り、いつもの日常をこなしていればすぐに当日である。
治療院にやってきた瞬間から「あれ?」とは思っていた。
着替えをして、うつ伏せに寝てもらい、身体に触った瞬間その違和感が目の前にドンと形になってお出しされた。
「……!? えっ? 何、どうしたの一人。全然知らない人の筋肉になってる」
「そうか?」
治療院にやってきた瞬間、いつもよりも顔色が良かった。疲れているというような表情などおくびも出さない男だが、それでも眉間のシワが強く疲労を滲ませた顔をいつもしているのに、それが全くと言っていいほど感じられなかった。何かいいことでもあったのか、急患が少なかったのか。そう考えて一人の背中を触れば、いつもと手触りが全くと言っていいほど違った。
誰だこの背中。
表情の違い、身体の変化。これらを合わせて考えれば勝手に口から言葉が出ていた。
「何々、どうしたの何かあった? ――とうとう、彼女でもできたとか?」
「……何故そうなる」
「え? 一人って女でもできないと眠らなさそう」
「………………………」
黙ってしまい返答がなかったので、流石に偏見で不躾で失礼だったかと自身も口を噤んだ。けれどもそれくらいのことが起きなければ、この男の身体がここまで劇的に変わることなんて考えられなかった。
心に決めた人でもできたのか。安心できる人が来てくれたのか。表情が変わるほど安らげる人が、見つけられたのか。
それならそれでいい。そのほうが、いい。
この人が少しでも安らかに過ごせるようになれば、自分はイチ医療者としてホッとできる。
そんな風に考えながら治療を始めれば、一人が口を開いた。
「村に、医者が来た」
「んん? 医者? ん? 何か前も来てなかったっけ?」
「そいつはもう村を出ている。別の医者が、村に来た。……今は診療所で共に治療をしたりしている」
「……、……は? え? あ、やべ打ち方間違えたごめん。痛くない?」
「おい。大丈夫だが」
「動揺しちゃったじゃん。ええ~? ちょっとちゃんと全部話してよ」
この男は患者に対して病気の説明はしすぎなくらいしっかりするというのに、自分のことや家族のことなどは必要最低限すら喋らない。何なら趣味嗜好も幼馴染なのによく解っていない。そういう機微がないのではないかと思っているが、それが合ってるか話すこともない。これは幼馴染と言えるのだろうか。自分たちが特殊なのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。正常が解らなければ異常が解らないので、この男との距離感や仲がどういうものなのかこの年になっても解っていない。
「えっ一人よりも若いの? へえ、どんな人? あれ、それ私と同い年じゃない? へえ~~」
治療をしながら一人の話を聞いていく。
そもそもこの高潔な男が、診療所に赤の他人を住まわせていることが驚きしかない。あの村の秘密も知られているらしい。それでもその医者が残ってやっているというのだから、そんなこともあるのかと驚嘆する。というかこの男、誰かと一緒に住めたのか。何だかんだお坊ちゃんかつ、ひとりっ子なので我儘なところがなくはないのに、凄い人が来たものだ。
(きちんとした医者で腕がないと無理でしょこの人と住むの。もしくは向上心が高いか? 前にいた医者とは話もしなかったっぽいのになあ~。どんな人なんだろ)
「ていうか男の人なの?」
「当たり前だろう」
「そうか~」
まああんな村に単身乗り込んでくるなんて男の人くらいだろう。ちょっぴり残念なような、ホッとしたような。自分で自分が解らない。
一人には幸せになってほしいのに、いざその相手ができたら笑っておめでとうと言えるのか、何度も何度も考えては解らなくなって思考が止まってしまう。
(早く彼女、作ればいいのに。でも女の人じゃなくて安心しちゃうんだから、不毛だなあ)
早くこの人を諦めたいなあ。そんなことを思いながら随分様変わりした一人の背中を治療し続けた。
「はい、お疲れ様でした」
「すまない、助かった」
いつも通り終わりの会話をして、一人が起き上がる。
本当に信じられないくらい筋肉の張りが違う。そもそも表情からして以前と違うのだからまあ身体だって変わってくるだろう。一先ず寝れるようになっているのなら、良かったと言うほかない。早死にしそうだと思っていたので少し安心できるかもしれない。
そんなことを考えてお会計を済ませれば、一人がさらに爆弾発言を落としてくる。
「――医師免許を、取った」
「へえ、医師免許。そうなんだ。…………はあ??? 何て??」
今の時間は以外のスタッフがいないし、客も目前にいる一人のみなので爆弾発言をするにしても構わないのだが、それにしたって爆弾が大きすぎる。比例しての声が大きくなった。
「何つった? は?」
「医師免許を、取ったと言った。――KAZUYAさんは知っているな?」
「そら知ってるっつうか、本家のKじゃん。いやでも5年前に亡くなったんでしょ?」
「そうだ。そのKAZUYAさんの妹さんとお会いする機会があった」
「あー、えーと、西城KEIさんか」
本家の系譜は一応叩き込まれたので、昔の記憶を引っ張り出してくる。会ったことはない人なので名前と性別しか知らないが。
そのKEI先生もご結婚されて苗字が変わっているだの、さっき話した男の医者と一緒に警察が来ただの、色々あってKEI先生の計らいで医師免許を取っただのと告げられた。
「いやさあ。それ今言う?」
「……」
「次の客入ってないとは言ったけど、今そんなくそ重たい話するかね普通。改まった場で言うもんじゃん」
「……お前も、忙しいだろう」
「いやアンタに比べたら普通だわ」
施術中に言われても困るが、施術後に言われても困る。もっとこう、ご飯でも誘って改まって言えなかったのか。
(あー、ご飯誘うほどの相手でもないもんな。これも村と家の繋がりでの報告でしかないか)
就職してから何度かこの治療院で会うことはあっても、ご飯に誘われたりなんてしたことはない。一人がそんな時間なぞ取ることができないと思っていたが、そもそも一人からしたらをそういうことに誘う相手ではないということだろう。
自分から誘うにしても、すぐに村に戻ると言われて断られるだろうことが解っているので誘ったこともなかった。
「まあでも良かったじゃん? 堂々と医者ですって言えるようになって。村の外で目の前で誰か倒れたとき、歯痒い思いしなくて済むね」
一人は村の外でだろうと構わず医療行為はするが、そこまででしかない。名乗ることもせず、症状が気になっても病院に連れ添うこともせず、ただただ救うだけ救い、それ以上もそれ以下もない。どれだけ人を救おうと、医者ですなどと、口が裂けても言えない。
「ああ。これから、外に出る機会が増える」
「あ、そうなの? 薬の買い付けも楽になりそう?」
「いや、それよりもKとして動くことが増える。西海病院に非常勤で勤めることにもなる」
「へぇ、大変そう」
「他人事だな」
「他人だからねえ」
この人が病院で働くのか、と謎の感慨深さが出てくる。こんなガタイの男が医者として座っていたらどんな人間でも委縮しそうである。
いやしかし、この男が誰かと一緒に働くのか。
「一人って誰かと働けるの……?」
「お前は俺を何だと思っている」
「救命猪突猛進」
「…………」
「心当たりあるんでしょ。まあでも病院ならあんたの知識存分に生かせるね。村ってやっぱ高齢化で症状も偏ってくるから、若い人の症状とか実際に見れるのはいい勉強なるよね~」
自身がそのために村に戻らず街で就職した口だった。高齢者なんぞいつでもどこでも見れるこの日本で、年若い症例を見るために街に居続けてる。
しかも西海病院なんて立派なところ、勉強もしたい放題ではないか。既に知識も技術もどこに出しても恥ずかしくないほどに突出しているというのに、更に研鑽できる場所に行くのならこの男の能力はどこまで延びていくのか。
一度見たら忘れられないようなこの一族の技術と知識が、光当たる世界に出て行ける日が来ようとは。
影の系譜だというのに、まさかこんなことになるとは仰天するしかない。KAZUYAさんが子孫を残さず亡くなったせいではあるが、そのおかげで一人が外の世界に羽ばたけるのは、良かったのか悪かったのか。
喜ぶべきだろう。だってもう既に表情も違うし、筋肉の硬さも以前と全く違うのだ。身体にここまでいい方向に影響が出ているなら、精神的にも全く今までと違うだろう。
この男が、世界に出て行けるのだ。喜ぶべき、はずである。
(病院で働くなら、色んな人に出会える。色んな人の目に止まる。……いいことだ)
それで、この人にとって大事な人ができれば。
──できたなら、自分は。この人からもっと遠くの場所に。この人を忘れられるように。この人を、思い出にできるように。
早くそのときが来ればいい。早くこの人が、幸せになってほしい。早く自分も、先を見て生きていかなければ。
「良かったね。頑張って一人、応援してる」
「ああ。……ありがとう」
笑い方も少し変わったかもしれない。そもそも静江おばさんが亡くなり、一郎先生が失踪してから笑うことが極端に減っていたので笑った顔を見るのが久しぶりかもしれない。
自分では一人を笑わせることもできないし、一人を助けることだってできやしない。自分が一人の傍にいるのはやはり何かが違う気がする。
早ければ次の夏に帰ったときにでも、この人の身の回りに進展があるかもしれない。それまでに何を言われても笑顔を作れるように心づもりしなければと、腹に力を入れた。
「そういえば、盆は帰ってくるのか?」
「うん、帰るつもり。年末は仕事入って帰れなかったからね~流石に掃除しに行かないと」
「そうか。日程が決まったら連絡してくれ」
「うーん、まあ、決まったらね」
「……迎えに行くから連絡しろ」
「え? いや別に夜中帰るわけじゃないから」
「いいから」
「うん? うーん、解った」
治療院に勤めて一人が来るようになってから、夏と冬に帰って来るなら連絡をしろといつも言われるのだが、そんなことだけを診療所に電話するなんて心苦しすぎるし、正直面倒なので連絡をしたことがない。一人が静かに怒るのだが何故なのか解らない。村にいる人数が増えることを把握していたいのだろうか。
連絡しても往診などで一人がいないことも多いので、無駄骨になるくらいなら連絡しなくてもいいかという思考になる。
どうせ両親の遺した家や墓の掃除だけに戻っているので、別に他にすることもない。テキトウに返事をしたが、やはり次も連絡をすることはないだろう。一人も社交辞令だろうし。
「気を付けてね~」
「のほうこそ、気を付けて帰れ」
「ははっありがとう」
一人に気を遣われるのは、正直なところ嬉しい。
何だかんだ格闘技もやっていて、一人にもある程度の年齢まで取っ組み合いをしても勝っていたのだ。女として扱われることが、存外嬉しく感じてしまう。
未だにある程度身体は鍛えているので正直その辺の男ならどうにかできる自信があるのだが、それはそれである。一人に心配されたり、女として扱われることが嬉しくないわけがない。女として見られていることが、嬉しい。
(まあでも、これも社交辞令だろうしね~)
高校の頃、男と取っ組み合いの喧嘩をしてボッコボコにしたことがある。正当防衛だったが普通の人間はドン引き案件だろう。その事件を一人も知っているが、一人は別段自分との距離も対応も変わらない。男に勝つ実力に引くわけでもなく、むしろ心配までしてくれた。よく考えたらその辺りからきちんと女として扱われるようになったかもしれない。
それが、は何だかとても嬉しかった。
両親がどちらもいなくなってから独りで生きていくしかなくなった。村の人たちも助けてくれるが、それでも独りきりで考えて、動いて、生きていかないといけない。誰かを頼れるような性格もしていなかった。父が厳格だったので独りでできることは独りでしていたし、格闘技をしていた影響で女らしさとも無縁だった。
そんな女学生が男複数人と取っ組み合いをして勝ってしまったのだ。周囲の人間は普通に引いていた。
その中で一人だけは何も変わらなかった。むしろ男たちに対して怒っていたし、自分のことを大層心配してくれた。怪我の手当てをしてくれたのも一人だった。色々あったのでその対応に追われたときに心配して助けてくれたのも一人だった。
女として扱われたかったわけでもないのだが、一人にそうやって扱われたのは、何故だかとてつもなく嬉しかったのだ。
そのときになってようやく、自分は一人が好きなのだと気づいた。というか好きになっていた。
元々村の掟的なもので結婚は考えていたが、惚れた腫れたは別枠だったところに、こんな事件があってから普通の男の人として見てしまうようになる。顔は格好良いし、中学から高校の間で男らしい身体つきにもなった。医療者としての顔は当時子どもながらに真剣そのもので、横顔が綺麗だとすら感じていた。
そんな男に優しくされて惚れないわけがないのだ。こちとら同年代の男が少ないしこんな事件も起こして女として見られていない。女扱いしてくれる一人にコロッといくわけである。チョロいとは自分で思うが、その想いが10年以上続くのだからむしろ重たいのかもしれない。
そんな中で社交辞令でも、一人に女扱いされるのは嬉しいのである。でもまあ社交辞令なので心配してくれて嬉しいな、くらいだ。
そもそも自分よりも一人の命のほうが大事なので、気を付けて帰るべきは絶対に一人のほうだ。殺しても死ななそうな頑丈っぷりだが、この人がいなくなったら本格的にKの血筋と村の医療が危うい。の気を付けて帰ってね、は本気で気を付けて帰れよ、の意味合いである。
「またね一人」
「ああ、……またすぐ来る」
最後の言葉も社交辞令として受け取って、は笑って手を振った。