07-1


いっそが病気であれば話は早いかもしれないと思った。
実際そんなことはなく、どこからどう見ても至って健康である。
ただただ少しだけ、元気がなさそうに見えただけだった。

(初日は、いつもと変わらなかったはずなんだが)

いつも通りの軽口を叩き合えた。こちらが気を利かせても遠慮をし、最終的に押しに流されている。押しの弱さに不安にもなるが、自分に対してそうやって気を許すときが嬉しく感じるようになったのはいつからだったか。
野良猫が懐くような感覚のようで、けれどもそれ以上に達成感や充実感がある。満足感、幸福感も感じている。何でも独りでやってしまうに、無理矢理にでも手を貸す行為に、何故か一人は良さを見出していた。
いつも変わらぬ笑顔を向けるが、少し照れるのが見れる。それだけで色んなものが満たされていた。

(体調が悪いわけでないなら、原因は何だ?)

二日目のは少し元気がなかった。いつもと変わりがないと言えばないが、本当に少し、覇気がなかったのだ。
そもそも笑顔が違うように見えた。
疲れていたわけでも、体調が悪いわけでもない。なら、何が原因なのか。

(それも別に言える相手では、ないのか)

軽口を言えるとしても、話をして気持ちを軽くする程度の相手にもならないらしい。
場所が悪いのかと思い見送りついでに昼飯にも誘ってみたら、見送りにも昼飯にも快く応じられて逆に驚いてしまう。そこで初めて、無理に押し通したときにの照れる顔が好ましいのだと気づいた。
こんなに長いこと想っているのに、そんなことを今さら気づくことにも自分自身が驚いていた。

結局急患に出会いの見送りはできず、その日の夜に電話をすれば繋がらない。
女の独り暮らしで、帰宅予定の人間が夜になっても帰っていない。少しだけ、どころか大層心配をし、いつも以上に眠れなかった。次の日の朝にまた電話をかけてしまう。
身体のできていない頃はに一度も格闘技で勝てたことはなく、身体能力の差が出てもは男を昏倒させる程度には強い。今もそれなりに鍛えてはいるらしく、ある程度強い人間でなければをどうにかできるとは思っていない。思っていないが、それでも彼女は女性である。
男に囲まれてもどうにかした過去はあれど、そのせいでだいぶ弱ったところも見ている。
男どもを返り討ちにしたその割に、自分と一夜を共にしたときは軽く泣くだけで何の抵抗もなかった。
勝てない人間には、そうなるのかもしれないと、思い至ったときに自分は手段を間違えてしまったと猛省した。
それでもあの夜、自分は救われてしまったのだからタチが悪い。
はそれから村を出て専門学校に行き、そのまま街で就職をした。たまに村に帰ってきて、昔と変わらず一人と接する。夜を共にしても、変わらなかった。一人がKになっても、変わりはしなかった。
そんな彼女が明確に違うと感じられたのだ。心配もするし気を配りもする。繋がるよう思いながら電話をかければ、思ったよりもすぐに声が聞こえた。

『はーい』
か? 一人だが」
『うん、おはよう。どうしたの』

どうしたは、こちらの台詞だ。
何かあったのかと心配をし、もしも、──もしも、誰かと一緒にいたのならなどと考えたら、腸が煮えくり返ってしょうがなかった。自分が共に過ごす予定だったその日に、誰かといたのかと、問いただしそうになる。
もしもその誰かがいるのであれば女であればいいと、そう願ってしまう。

「……昨日は、すぐに帰ったのか?」
『え? うん。別にすることなかったし』
「夜に電話をしたんだが、出なかっただろう」
『えっ、……あっ、あれ夢じゃなかったんだ』
「お前」

ため息をつきそうになったのを何とか抑えた。そんな早くから寝ていたのか。

『お酒呑んで早く寝ちゃったんだよね。ごめん。何かあった?』
「いや、そういうわけではないが。女の独り暮らしなんだ、心配ぐらいする」
『私まだ鍛えてるからそこそこ強いんだけど』
「知っているがそういう問題ではない。体調も、悪かったりはしてないんだな?」

高校の頃の出来事も、そもそも元は自分よりも強かったことも、全部知っている。
それでもは女性だし、自分よりも筋力がなく弱いのも知っている。
自分の眼の届かないところで倒れられても嫌だが、悪漢にでも襲われているのも到底許せるものではない。自分がいないことでがそんなものに巻き込まれでもしたら、やはり村から出さねば良かったと後悔するだろう。

『ええ? あー、ちょっと呑みすぎて二日酔いあるかなってくらい』

独りで呑んだのか。誰と呑んだのか。
村にいる間に、がそんなに呑んでいるのを見たことがない。誰かの家に呼ばれたときに呑んだとしても、きちんとした足取りで帰っていくのを何度も見ている。
電話に出れないほど呑んで酔ったのか。独りで? それとも誰かと?
自分が送っていく日に、そんな約束をする相手が、いるのか。
少しだけ声が硬くなってしまう。喉が上手く開けていないように感じられた。

「水を飲め。……誰と、呑んだんだ」
『いや独りだけど』
「そうか。それならいい」

手のひらを返すとはこのことかと自分自身で思った。

『はあ~? どうせ寂しい女ですよ』
「そういうことを言っているんじゃない。村に戻って来たときは全然呑まないだろう」
『そりゃ他の人の家で酔いつぶれるわけないじゃん。独りで家帰らないといけないんだから酔わないように呑むよ』

が呼ばれるときは、大体一人も呼ばれている。逆もしかりだった。解散して帰るときもできる限りのことは家まで送って行っている。
過去のことがあるので、自分のことを信用していないと言われているようだった。受話器を握る力が増した。
やはりあの夜は間違えてしまったと、今でもこうやって思い悩む。に詰られるわけでもなく、怒られるわけでもなく、悲しまれるわけでもない。ただただ何も言われないので忘れそうになるが、あのときの自分のせいでが戻ってこないとしたら、やはり自分から戻ってきてほしいと言うのは違う気がした。

(独りだと、酔いつぶれるほど呑むのか)

そんなを見たことがなかった。成人してもう何年も経つどころか、30歳が見えてきている。それでものそんな姿を、見たことがない。誰かその姿を見た男がいるのかと、勝手に考えては憤ってしまう。
言葉が続けられずにいれば、が疑惑の声を上げる。

『別に健康なんだけど、私何か病気ありそう?』
「違う」

そこは断言するが見た限り健康そのものであるし、自身別に自覚症状がないのだから平気だろう。

「……村にいたとき、元気がなさそうだと、思っただけだ」
『いや普通に元気だよ』

そうだろうか。自分の気のせいだろうか。
確かに今こうやって電話をしているときはいつもと変わらないと思う。
けれども、昨日一昨日のは確かにいつもと違ったと感じたのだ。

『一人のほうこそ疲れてるんじゃないの』

「違う」と否定したかったが、の治療中の寝方と今日の睡眠時間の少なさを考えたら一概に完全否定もできなかった。
自分の勘違いであり、今が無事だったのならとりあえずは良かった。そう思うしかない。
自分の中で何とか納得させようとしたら、が全く別の話題で口を開いた。

『……えっ、ちょっと一人テレビ見てる?』
「テレビ?」
『ねえ氷室俊介って俊介?』
「俊介……?」
『今ニュースでやってるんだけど、いやこれ凄くない!?』
「いや待て、俺も知らない」

テレビを付けてチャンネルを回せば、確かに氷室俊介の名前が見える。長いこと会ってはいないが、面影もしっかり見える顔が映し出されていた。

「ああ、これか」
『えっていうか凄くない? うちの村から医者が二人も出てるだけでも凄いのに。アメリカ行ってこんな研究結果出してるって……うわ~やっぱ俊介って頭いいんだなあ』
「……そうだな」

俊介よりも成績が良かった男と電話をしているのは、解っているのだろうか。
俊介が自分よりも劣っているなどと思わないし、自分のほうが優れているという感覚もないが、それでも成績で言えば俊介に負けたことはない。に、そんな風に褒められたり持ち上げられることが、自分はあるのだろうか。

『ええ~こうなるともう日本には戻って来れないのかな。日本に戻ってきたら会えるといいね』

そうだな、とまた答えたかった。
次のの言葉で口が閉じてしまった。

『私も会いたいなあ』
「……」

(俺には?)

『一人?』

名前を呼んでもらっている。救われている。これ以上を求めるのは烏滸がましいのかもしれない。間違えたあの夜から、ずっとずっと、どこまでなら求めて良いのかを考える。
こんなに求めているのに、には求められもしない。頼られることもない。
自分は救われてばかりで、何も返せず、医者である自分がの背を支えることすら叶うこともない。

は」
『うん?』
「俊介に、会いたいのか」
『そりゃもう10年以上顔見てないからなあ』

が村を出てからの10年、逢いもせずにいたらから会いたいと言われたのだろうか。
そんな馬鹿なことまで考える。まず間違いなく待てるわけがなかった。

『まあでも日本に来れたとしてもあれでしょ、いるとしたら東京とかでしょ。流石に会えないわ。俊介が村に戻って来る時間あるかも解らないしね』

現実的な意見を言われて、確かになと思う。
何が何でも会いに行きたいと言われたら、自分はどんな顔をしているか解ったものではない。

『でも一人は会いたいでしょ?』

耳にもう馴染んでいるの声が、機械越しに届く。
そうやって、はこちらを考えている。いつも自身のことではなく、一人のことを考えている。
バス停で待っていたときすぐさま水を渡してきたことも、体調を心配してくれたことも、治療後寝かせてくれたことも、に取って何気ないことでも、一人からしたら何故だか胸が熱くなるほどに嬉しかった。
俊介と一人が会えることを考えてくれている。学生時代に一人と一番仲の良かったのは俊介だ。一人が俊介を助けたことも、俊介に助けられたことも数え切れないほどにある。とはまた別のベクトルの大切な人だった。
だから、はそんなにも嬉しそうなのだろうか。自分が、親友の俊介と会えるかもしれないことを、喜んでくれているのか。

「……俊介が会いに来るかは解らんがな』
『いや~俊介って何だかんだ村も一人のことも気に入ってるから来そうな気がするな~』

がそう言うなら、確かに来そうな気がしてくる。来たら来たで嬉しく思うし、来れなくても元気にしている姿がテレビ越しにでも見れるならそれで良い。
落ち込み気味だった気分が浮上して、少しだけ笑えることができた。
そんなときに玄関側から声が聞こえてくる。富永の焦ったような声も聞こえ、意識をテレビから扉の外に向ければ、富永が扉を開け放ち急患の状態を伝えてくる。

「──、すまない、急患が入った」
『うん、昨日から大変だね。頑張って』

やらなければいけないことなのであまり大変だと思ったことはないが、からこう言われると自然と力が入る。救わねばならぬと決意を新たにした。

『またね』
「ああ、……また、治療院に予約の電話をする」
『はーい、お待ちしてます』

そうして受話器を置いて、急患へ向かった。



数時間後、緊急手術を終えてから貰った個人的な菓子折りを摘まみながら、このお菓子の礼を改めてするのをすっかり忘れていたことに気づいた。

(いつも、個包装で摘まみやすい物で助かっていると、言わねば)

この村、何せホイホイ物を差し入れる老人が多い。しかも一人がこの図体なので差し入れなどが量に比重を置かれる。夏のスイカ一玉を何世帯にもやられると正直堪ったものではない。切るのも保管するのも面倒なのである。畑を作っている者も多くいるのでどうしても生ものが増えるのだが、消化しきれるかがいつも問題だった。
富永が来てからその消化ペースも上がったが、今度は一人自身が村を出ることも増えた。富永も富永で嬉しいんだか辛いんだか解らない悲鳴を上げている。

(賞味期限も長くて助かっているし、何より村にいると甘いものはあまり手に入らんからな)

街に下りない限り、の持ってくるような洒落た物は当たり前だが手に入らない。自分で作ることなどもないし、イシさんも和食が主なのでそういうお菓子は作らないため、の買ってくるお菓子は気分転換などにとても良い。
しかも今回は診療所と一人用とで、別個に用意されている。気分が上がらないわけがない。
賞味期限も長い物が多いので、一人自身に貰ったものは部屋に持ち込んで自分ひとりで時間をかけて消費しようと目論んでいる。
を見送る日に、きちんとまた礼をして飯でも奢ろうと思っていたのだ。それでまたが申し訳なさそうにして、そのままお礼合戦になっても個人的には構わない。の頭の中での自分の割合が増えるのは嬉しい限りである。
別にお礼が欲しいわけではないが、貰えれば嬉しいものである。それがからなのだから、当たり前だった。

(治療院によく来てくれるからとも、言っていたが)

身体のメンテナンスで治療をしてもらっているのはこちらである。その対価に支払いもしているだけなのでお互いwin-winのはずだが、は礼をしてくる。

(……幼馴染で、顔馴染だから使っているだけだとでも、思っているのかアイツは)

忘れられないようにこちらは必死だというのに、は一ミリも理解していないだろう。
難儀な相手を好きになってしまったものだと、ため息をついてしまう。
何もできない人間は好まない。甘えたも好まない。けれどもには頼ってほしいし、甘えてもらえたらと思ってしまう。だがは全て独りでどうにかしてしまうし、それを良しとしている。自分が入れる隙間をどうにか探して、無理矢理自分を押し込んでいる。押し付けていると言っても過言ではない。は優しいので、それを本気で嫌がることもなく受け止めている。それに甘えているのは一人自身だ。
患者に依存されるのは喜ばしいことでも何でもないが、に依存されるのなら、別に構わないと思ってしまうからこの感情は厄介である。どちらかと言えば依存しているのは自分かもしれず、そこは本当に気をつけねばと律している。
が早く村に戻ってくればいいといつも願っているが、自分のこの感情を把握すればするほど、が戻ってくるのがいいのかどうか解らなくなる。自分以外の男がの隣に立つのは気にくわないと言う他ないが、じゃあ自分がに相応しいかと言えば、多分そんなことは、ないのだ。
がもっと、自分から頼れて、甘えられる相手が、多分他に、いるのかもしれない。
それは自分ではない気がして、けれども諦められずにの隙間に自分を押しつけ、の優しさと甘さに無理矢理絡めて押し込んでいる。だからこそ悔しくて堪らない。自身から、頼る相手や甘える相手が、いたとしたら。自分の何と虚しくて厄介なことか。

そんな風に考えていたら、からの菓子がだいぶ減っていた。そんな馬鹿な。
個包装のカラだけが机に広がっている。もっと大切に食べようとしていたのに、何ということだ。やってしまったと天を仰いだ。
いつもこうやって黙々と食べてしまい、何が美味かった、という菓子の感想が出てこない。今回もそうなりそうである。
母親が死んでからイシさんの料理で共に育ったせいか、好きな味が似通っているように思う。いつも舌に馴染む菓子を貰えるので、こうやって一心不乱に食べていることがままある。
この菓子の礼はどうやって返そうか、そう思いながら何故かまた一つ菓子の袋を開けていた。