13-1



***


「一人って何考えてるのかわかんねえ」

小学校で聞こえたその言葉は、一人の耳にしっかり入ってしまった。思わず立ち止まってしまう。
他の人と違うのは解っていた。家の成り立ちも何かがおかしいのは解っていた。けれども自分自身がそうやって見られていることをこんな形で知ってしまって、明確に悲しみを覚えた。
「何で俊介は一人と一緒に遊ぶのかわからない」とまでその子に言われていて、俊介に対して何故か申し訳なさも感じてしまう。自分が普通の人とは違うのを言われるのはしょうがないけれど、そのせいで俊介も何かを言われるのは嫌だった。

(この間、転んだ時に処置したときはお礼を言ってくれたのに)

心にもないお礼だったのだろうかと、胸の奥が痛んだ。余計なお節介だったのなら、治療を上手くやって満足してしまった自分が何とも惨めで恥ずかしかった。
知らず顔が下を向いてしまう。素知らぬ顔で出ていくことはできなかった。このまま何も聞かなかったことにして、もう少し時間が経ったら家に戻ろうと思った。

自分を話題に出していた子たちが帰って、一人もゆっくり帰路につく。
いつものように歩けなかった。目線は下を向いてしまうし、歩幅もいつもより小さい。けれども早く家に帰りたかった。そう思うのに走る気にはならないし、足が思うように進まない。
胸の奥は何となく痛むし、お腹の奥もキリキリ痛む。病気ではないのが救いだろうか。それくらいの違いは流石に解る。少しだけ目の奥がツンとするがどうにか我慢していた。

「かずと?」
「っ、…………?」

がいることすら気づいていなかった。そもそもの家の前を通っていることにそこで気づく。
家から出て来たに声をかけられていた。今日はのお父さんが帰ってくるのが遅いので、診療所で一緒に夕飯を食べる日だった。一回家に帰って荷物を置いて、これから診療所に行く所なのだろう。
会えて良かったのか、会いたくなかったのか、一人は解らない。情けない顔をしている気がして見られたくはなかった。けれどもに会えたのは、何故だか嬉しい。

「どうしたの、お腹いたい?」
「何それ、……そんな顔してる?」
「うーんわかんない。でもヘンな顔してる」
「変……」

さっき言われた言葉よりもショックかもしれない。変な顔とは一体どういうことだ。目鼻立ちの整った顔立ちだの聡明そうだのよく言われてきた一人は、の言葉がさっきよりも衝撃的だった。

「一人のお家、行かないほうがいい?」
「え、何で」
「ジャマじゃない?」
「邪魔なわけない。……そもそもひとりじゃ、ご飯作れないだろう」
「パンがあるもん」
「ダメだそれだけじゃ。邪魔じゃないよ。一緒に帰ろう」
「でも」
「お母さんもイシさんも、もうご飯作ってるよ」
「……わかった」

二人並んで診療所に向かう。幼稚園の頃は一人のほうが大きかったが、小学校に入ってからの身長がどんどん伸びて、今はほぼ同じ目線で歩幅も一緒だった。ぎりぎり一人のほうが小さいのが、少しだけ悔しい。男はあとから更に伸びると父親にも村井さんにも言われているが、それがいつなのか解らず少しだけヤキモキする。けれどもと並んで歩くのは何だか楽しかった。

「本当に、ジャマじゃない?」
「邪魔だったら一緒に帰ってないよ」
「……一人何でヘンな顔してたの」
「変な顔……。……もう覚えてない。元気だから大丈夫」

何を考えてるか解らないと言われたが、には一人の表情が解るようだった。別に泣いているわけでもないし、怒っている顔をしていたわけでもないのに、は一人の顔を変だと言ってきた。
さっきまで学校で言われた言葉が頭の中をぐるぐる回って、自分の言葉もよく解らない単語の羅列を成していたのに、今は何だか頭の中がスッキリしていた。気づいたら胸の奥が痛んでいたのも治っている。に会っただけなのに不思議だと、一人は思った。
まだ少し言われた言葉が耳の奥に残っているが、のように解ってくれる人がいるなら別に気にする必要がないようにも感じた。
医者なら動揺を顔に出すなとも言われている。患者の前で平静でいられるように努めなければならない。
今のままでいいのだろう。解らないと言われようと、には表情で理解されるのなら、それでもう良いんじゃないかと一人は思った。
それよりも、が診療所に来るのを嫌がっているほうが一人には問題である。

はうちに来るの嫌なの」
「イヤじゃない」
「じゃあ良いだろ。が来ると楽しいよ」
「本当?」
「うん」

そうして診療所に向かって一緒に夕飯を食べて過ごし、誰かに言われた言葉なんて気づいたら忘れていた。診療所に来るのをイヤじゃないと言ってくれたの言葉が嬉しくて、一人はこれ以降も気軽にを誘うようにもなる。
一人がに救われたと感じた一番初めは、多分この記憶だった。


***


母親が死んだことを思い出して、一人は自身でも驚くほど不安定になった。

村井さんが戻ってきてからに逢えば、何かいいことがあったのかと当てられて驚き、クローン関係で母親のことを思い出して不安定になったときにも言い当てられた。

いつもいつも、気づくのはだ。
自分が折れそうなとき、後ろを向いてしまうとき、丁度よく目の前に現れるのは、誰でもないだった。母でも父でもなく、村の他の人間でもない。ただただ、だけが、自分の弱っているときに現れて自分を救い上げてくれる。
これで縋りつくなというほうが難しい。何せ本当にタイミング良く現れるのだ。明確に弱っているときほど、は一人の前に現れて救い上げてくる。背中を押すこともある。医者である自分がだ。いくら知識をつけようと弱るときはあるし、十代の頃は失敗も多かったので今ほど自信もなかった。だからこそ余計にの存在が一人にとってありがたく、かけがえのない人になっていった。
母が死んだときは父親たちがいたからどうにかなった。それでも自分からに知らせることもできず、村の人間から聞いて駆け付けたに心配されることになる。
父親が消えたときもまだどうにかなった。村井さんから直ぐに医術を叩きこまれることになったので、気にすることができなかったというのもある。父の一郎がいなければ自分が村の人たちへ医療を提供するしかない。その気持ちでどうにか前を向いていたのが十八くらいのときだった。

一人が人生の中で一番弱っていたときは、村井さんも戻ってこなかったあの日だろう。


***


「一人!」
「――

どうすればいいのか急に解らなくなっていた一人は、の声で顔を上げた。もう陽が落ちて辺りが暗くなっているのにそこで気づいた。
患者が来なかったのが幸いだろう。今の状態だときちんと対処できていたか怪しいと一人はそう思った。

村井さんが、帰ってこなかった。

連絡もなく、書置きなどもない。何も知らされていない。村の人たちも村井さんを見ていない。バス停に向かっているのを村の人が見かけたのが最後だった。そこから、診療所に戻ってきていない。
一日だけなら待てた。心配はしても帰ってくるだろうと思っていた。
村井さんが帰ってこないまま、二日目の今、まだ帰ってこないことに一人は思考が凍り付いて何も考えられなかった。
今日は患者がもう来なかったから良かった。明日は? 明後日は?
村井さんがいつ帰ってくるのかも解らず、自分はまだ二十歳にもなっていない若輩者である。まだまだ知らないことも多いし、父親や村井さんたちに比べたら経験も圧倒的に足りていない。
村井さんを探したほうがいいのかも解らなかった。自分を置いて行ったのか、村を捨てたのか、何かを見つけに行ったのか。何も解らないので一人もどうしようもない。
明日の準備だってしないといけない。自分がしっかりしなければ、この村の医療は終わってしまう。
けれども考えは纏まらないし、思うように身体は動かなかった。よく考えたら食事もちゃんと摂っていない。それでもどうしたらいいのか何も解らないまま一人は途方に暮れていた。

がやってきたのは陽が沈んでからで、彼女は取るものとりあえず一人に食事をさせた。
深くは聞かれなかったが、一人自身答えられるほど何も知らない。村井さんは、それだけ唐突に村を出て行き帰ってこなかった。
父親が母の遺骨を持ったまま消えたのは、何となくだがまだ一人は理解ができた。それほどまで父は母を愛していたのだと解って、あの父もヒトだったのだと思ったくらいだ。けれども村井さんに関しては本当に突然で、まだこれから色んなことを教えてもらえると思っていた矢先だった。
母の死からそろそろ二年は経つが、けれどもまだ二年も経ってはいない。一人自身気持ちの折り合いも、これからの身の振りも全く決まっていない。考えることが多すぎて何も考えられなくなっているのが現状だった。

そんなときに診療所に来たは、一人に下手なことを言うでもなく、一人の食事を心配して共に過ごしてくれた。

「イシさんのご飯残すの勿体ないよ。……村井さんの分も作ってるみたいだし、私が食べる」
「……ああ、そうだな。食べてくれ」

と共に食事をするのは、が診療所に入院していたとき以来だった。もうそこから二年以上経っていることに一人は驚くが、何だかんだ母が死んでからあっという間だったのだろう。
こんなときでも食事の味はしっかり解るのだから、不思議だと一人は感じる。けれども独りきりだったらどんな味だったのだろうかとも思ってしまった。そもそも食べていたかも解らない。
また助けられたな、と思った。

(俺はを助けることが、できたことがないのに)

母親が死んだときもはすぐさま来て一人のことを気にかけてくれたのに、一人はをちゃんと助けられたことがない。それこそ男たちの暴行のときも間に合っていないし、自身がどうにかしてしまっている。の父親が亡くなったときも、が取り乱していたわけでもないので一人は積極的に気にしたわけでもない。母が死んだときや、今のこの状況になって、信頼できる人間が近くにいるだけで心強く感じるという当たり前のことに今更気づき、がひとりきりになったときのことを思い出して一人はさらに情けないことこの上なかった。

夕飯を食べ、がそのまま片付けまでしてくれた。風呂にも追い立てられ、それも終わったあとに部屋でひとりでまた明日からのことを考えて何も手につかなくなってしまう。
そんな中でが部屋にやってきて、一人に声をかける。

「一人、イシさん来てくれると思うけど、ご飯は炊けるように予約しといたから」
「ああ……、すまない。――、は」
「うん?」
「……帰る、のか」

聞いておいて「何を当たり前なことを言っているのか」と一人自身思ってしまった。彼女はまだ未成年であり、この間高校を卒業したが区分的にはまだ高校生である。
の家はここではないのだから、帰るのが当たり前である。けれども一人は聞かずにいられなかった。
縋ってしまった。

「うん、帰る。明日引っ越しだし」
「――は……」

言われた言葉が理解できなかった。引っ越しとはどういうことなのか。

「引っ越し……?」
「そう。イシさんから聞いてない? 私専門学校に行くから街に引っ越す」

何も聞いていない。引っ越しどころか、の進学すら一人は何も知らされていない。そんな進路をいつ決めたのか。村を出るような選択肢を選んだのも一人は衝撃を受けた。
自分を置いて、もいなくなるのか。

「なん、でだ。どんな学校に……」
「鍼灸学校」
「鍼灸……」

看護だと言われたら引き留められると思ったのに、それすら打ち砕かれた。医術なら自分と一緒に、などと思ってしまったことにもこのときの一人は気づいていなかった。の考えたことと選択したことにひたすら衝撃を受けて、そのために村を出て行くことすら信じられなかった。

「っ……無理に、村を出ないでも」
「大学だと県外だったけど、専門なら街に出るだけでいいんだよ。高校なら村から通うのもどうにかなったけど、流石に国家資格だしちゃんと勉強できる時間取るのに街へ出なきゃ」

言われた言葉は理解ができるのに全く受け止められなかった。

もいなくなる?)

考えたこともなかった。が村から出て行くことを一人は想像したこともなく、掟を嫌がって結婚はしなかったとしても、は村に居続けると思っていた。
村からいなくなることを、今このときまで一人は一欠片も考えたことがなかった。
喉が渇いて口が上手く開けられない。引き止めたいのに何も言葉が思い浮かばなかった。

「進学するにしても、まだ……まだ村を出ないでも……」

はもう高校を卒業しているが、まだ3月半ばなので引っ越しはもう少しあとでも良いのではないかと、そう引き止めた。
嫌だった。まだ村にいてほしい。このまままでいなくなったら、自分はどうすればいいのか。

「そう言われても……」

もう全て決まってることだと、そう伝えられて一人も何も言えなかった。
そもそもの進路を今さら知らされたこともショックで、自分はその程度なのだと言われているようだった。相談されることもなく、決めたことを教えてももらえない。

「流石に帰らないと」
「――待ってくれ……っ」

思わず一人は引き留めたけれど、それ以上何も言葉を発せない。昨日今日と起きていることが目まぐるしく、明日からどうすればいいのかということばかりが浮かんでは消えていく。
父親の行動は少し理解もできた。村井さんは、まだ受け止めきれていない。このまま、まで出て行くことが一人には耐えがたかった。
が暴行されてから適切な距離を保っていたのに、何も考えずにの手首を掴んでしまう。そんなことを考えている余裕もなく、精査することもなく自分の気持ちがそのまま口から出てしまった。

「嫌だ、……行かないで、くれ」
「一人……」

掟が嫌で結婚したくないなら、それでも構わない。けれどもが村を出て行くのは許容できなかった。明確に嫌だと感じて、初めてこんなにも否定的な言葉を口に出していた。
父親も母親も、村井さんもいなくなるのは、まだ我慢ができる。どうしても自分はその三人よりも若いのだから当たり前だと思っている。ただその別れが思ったものと全く違っていただけであって、時間があればどうにか自分の中で解決するともぼんやり解っている。村の年上の人たちに置いて行かれるのも、許容ができる。同い年の俊介は、村に納まっていられるような人間でもないから村を出るのは理解も納得もできた。俊介らしいとすら思っていた。
その中でだけは明確に嫌だと思った。考えたことすらなかったのでから言われて青天の霹靂としか言いようがない。村井さんが帰ってこなかったとしても、がいればまだ乗り越えられるとすら思っていたのに。
が診療所を避けるようになったとしても、村からいなくなることなんて考えたことすらなかった。村にいればの様子は人づてに聞けるし、自分から会いに行くことだってできる。
それが、できなくなる場所に、は自分から行くと言う。
嫌だと思った。理解ができなかった。があの家に居らず、自分の手の届かない場所に行くというだけでこんなにも思考がまとまらなくなる。
一人は必死だったがはそんなこと気づくこともなく、無慈悲なことを言う。

「……無理だよ……」

進路を決めた。将来を見据えた。街に出て暮らしていくことを考え、全てをひとりでこなした。全部選択したあとで、全部決まったあとだった。
は悩む素振りすらなかった。言い訳をすることも、なかった。下手な慰めもなく、いつも通りのだった。
それが、一人はさらに嫌だと思った。村を出ることを悩まず、ひとりで決めてひとりで出て行く。自分ではを引き止める人間にはなれなかったことが、こんなにも辛くて惨めだった。

(何でだ、こんなに、俺は……)

――俺は、好きなのに。

が村を出て行くのが耐えられなかった。が一人のことで悩むこともなくすぐさま答えを出しているのも悔しかった。
どんな顔をしていたかも解らない。に対して何も言えずに口を閉じては開けて、言葉にできない空気が出ていった。
掴んだままのの手首を少し引っ張れば、は簡単に身体を傾けた。部屋に入ってきたのも今さらながらに不用心だと思ったが、見なかったことにした。
驚いているを見て、少しだけ溜飲が下がる。が自分を見ていることに、何故か満足感を得た。
どうしてそんなことをしたのか解らなかった。ただただを引き留めたかっただけだったが、やり口として最低だったことは否めない。
を自分のベッドに沈めて、止まれなくなった。
一人の行動に驚いたものの、は一人の顔を見て腹を括ったような、諦めたような顔をして一人の下から動くようなことはなかった。

初めて女性を抱いた。
いつかするかもしれないとは思っていたし、それがだろうとは思っていたのだが、こんな風になるとは考えてもいなかった。
無我夢中でコトを進めて、途中が泣いているのに気づいて汗が引いた。
それでも止められず、の身体を無理矢理暴いていった。
が、抵抗らしい抵抗をしなかった。ならどうとでもなると思ったが、それでもやはり体格差があって無理だったのかもしれない。手足を動かす気配も、隙ができるのを窺うでもなくは受け入れてるように見えた。
最低なのが解っているのに止められなかった。無理矢理にでも欲しいとすら思った。が、いなくなるくらいなら。
恨まれるのかもしれない。蔑まれるのかもしれない。それでも今はただを傍に置いておきたかった。が傍にいれば明日の不安も軽くなった。

笑っていてほしかった。助けるために自分がどれだけ身体を張っても構わないと思っていた。全部に使ってしまって、そのあと十年以上後悔することになる。
こんなことで泣かせたくなかった。それでも初めて見るであろうの泣き顔は網膜に焼き付いていく。女体を見るのも初めてではないのに明確に興奮していたし、服の下の肌の白さも、自分とは全く違う肉の付き方も、自分の掌で覆えてしまえるような細さも、全部が想像以上で生唾を飲んだ。
明日の不安を抱えながら苦しくてしょうがなかったのに、を組み敷いて興奮している。に縋りながらこんなことをしていて情けなくも感じたのに、妄想でも夢でもないの身体を見て止めることもを気遣うこともできなかった。
それでもは、名前を呼んでくれる。

「――かずと、あ、ぁ……あっ――」

好きな女性を抱いて、何とも言い難い感情に包まれながら一人はこの日自分でも驚くほどの熟睡を得られた。
沈む意識の中、母が死に、父も失踪してから深く眠れていなかったことにこの日ようやく気づく。思考がまとまらなくて当然だった。
ああ、このヒトしか、いないかもしれない。
父親にとっての母が、自分にとってなのだろう。それが結婚をほとんど約束されたも同然の女性だったのは奇跡に近い。初めて神に祈ってもいいと思えた。
それほどまでにの傍にいるのは安心できた。

そう思った次の日には、中村は村から出て行った。