13-2


自分では、誰も引き止めることができない。
村から出て行く人を引き留めるような力が、自分にはない。そもそも相談もされないのだからどうしようもないとすら感じてしまう。その程度の人間だと言われているようで余計ひとりになった惨めさが増した。
それでもこの村には自分のような人間が必要で、一日一日を過ごしていかないといけない。父が帰ってきたときに、村井さんが帰ってきたときに、が帰ってきたときに、自分が村にいて迎え入れようと思った。
昨日までは開いていたの家の雨戸を見ながら、一人は今日の診療のために歩き始めた。


***


「うわ本当にKって呼ばれてる」
「――!?」

村の人と会話をしているときに懐かしい声が聞こえて振り向けば、ずっと恋焦がれていた女性が変わらぬ姿で立っていた。こちらとしてはどういう顔をすればいいのか解らず、名前を呼んだはいいものの続きが何も口から出てこない。

じゃねえか、村に戻ってくるんか」
「んーん、家の掃除しなきゃって」
「あー」

何も言えずにいれば一人と会話をしていた村の人が聞きたいことを聞いてくれた。の返答に少なからず気落ちしてしまう。戻って来たわけでは、ないのか。

「聞いてはいたけど、本当にKって呼ばれてるの見ると一人が村の先生になった感じがするね」
「おお。K先生は今じゃもう大先生みたいにしっかりしてっからなあ」
「へえ、すごいねえ」

村を出て自分を置いて行くを少なからず憎く思った時期もあれど、結局こうやって顔を見ると元気でやっていてくれて良かったと安心する。むしろ以前よりも顔色が良くも見えるし、惚れた欲目でなければ村にいた頃よりもだいぶ女性らしい顔つきになったように見えた。
綺麗になった、と言うのかもしれない。
一人はヒトの美醜がよく解らないので、この表現が合っているかも解らない。
村の人と笑顔で話をするが、眩しく見える。村を出たからそんな風に見えるようになったのかと、錯覚してしまう。
農作業のためにその場を離れていく村の人とは話し終わり、とふたりきりになってしまう。何を話せばいいのか、一人は解らない。
元気でやっていてくれればそれで良いとは思っていたが、心構えがないまま逢うことになるとは思っていなかった。

「一人はやっぱり寝れてないの?」
「……そんなことは、ないが」

父親と村井さんが村を出てからに比べたら、慣れてきたのもあって少し余裕が出てきたので眠れるようになっている。だがまだまだ学ばなければならいことは多く、睡眠時間を削って調べ物をすることもあるので完全に否定はできなかった。
が村を出たときの状況を思い出しながら返事をすれば、にマジマジと顔を見られて少しばかり顔周りに熱が集まる。そもそもにそんなことを言われるような顔をしていたのかと、急に鏡を見たくもなった。

「そうかなあ。気のせいならいいんだけど」
「いや、睡眠自体は浅いから気をつける」

がいたあの晩の眠りを考えれば、確かに熟睡はできていないのでそんな返答になる。
とりとめもない話をしながら、が家に行くと言うので付いていく。診療所への道がの家の通りなことに感謝した。そうでもなければと話すことができないまま分かれることになってしまう。

は、あの日のことに対して何も言わない。
何も言わないまま、一人を起こすこともなく診療所からも村からも出て行った。それが一人にはだいぶ堪えている。そのまま、今日逢ってもやはり何も言わない。あの日のあったことを話すこともなく、一人を詰ることもなく、ただ何もなかった。
それが良いことなのか悪いことなのかも一人は判断がつかない。けれどもあの日の夜にを泣かせてしまったことだけは記憶に刻み込まれていて、罪悪感がどこまでも湧き出てくる。
それでも、を抱いたあの日、確かに一人は救われてしまった。

そのままずっと顔も見せずにいてくれれば、憎むべきなのか恋焦がれ続けるだけなのか揺れているだけで良かったのに、は顔を見せに来た。また街に戻るとしても、村に戻ってきた。
ドロドロとした感情が積み重なっていたのに、顔が見れただけでそれが少し軽くなった気がするのだから、不思議なものだった。一人は自分のこの感情が制御できずに困っているが、に対してだけなので困る瞬間が局所過ぎて放置するしかなかった。

「一人、じゃなかった、K先生は……」
「――名前でいい」

歩きながらにそう言われて、一人はすぐさま訂正させた。Kと呼ばれることに不満も何もないが、にそう呼ばれるのはあまり好ましくない。
名前で呼んでくれるのなら、それがいい。

「え? でも」
「正式なKの一族でもないし、村の人たちが呼んでいるだけだ」
「えー?」

「そうかなー?」とは首を傾げる。影の系譜なのだからと言えば何となく納得したようだった。
Kと言うことにも、Kと呼ばれることにも理解や納得をしているが、それを完全に良しとしているわけでもない。本家があって、KAZUYAさんもいて、自分はあくまで影の一族である。無免許なのも大きい。
その上で、村の人がどう呼んでも構わないと思っている。
けれどもには名前で呼ばれたいと思ってしまった。

「名前のままで、いい」

そう言えばは納得して変わらず名前で呼び続けてくれた。
それでいいと、一人は思う。村の人に何か言われたら別かもしれないが、そんなことを言う人もいないだろう。何か言われたなら自分が願い出たと言えばいい。
もう自分の名前を呼ぶ人は村にはいないのだから、くらいは許してほしい。村の人たちに言えば全員名前で呼んでくれるのだろうが、それもそれで違う気がした。
そこまで考えて一人は何だかしっくりこなくて、ちゃんと自分の感情と向き合った。

(違うな。――に、名前を呼ばれたい)

自分の気持ちを言葉にしていくと、そうなる。
村の人たちにどう呼ばれたところであまり何も思わないが、にまで名前を呼ばれなくなるのは何だか寂しく感じた。Kと呼ばれることは誇れることであり、村の人たちにそうやって呼ばれるのは認められたと思えた。けれども今まで村の人間として居た自分が、急に立ち位置が変わって変な感覚になる。いつかそうなるのは解っていたけれど、それが早すぎたというのもある。村にいると自分の名前を言うこともないので、時々自分のフルネームが遠い存在のようにも感じた。
にもKと呼ばれるのは、何かが違う。単純に名前を呼ばれたい気持ちも強いが、結局と距離が開いた感じがして嫌だと一人は思ってしまった。

「急には直せないから、名前のままでいいなら助かる」

一人から直せとは絶対に言わないだろう。のその言葉に、このまま直さなくていいとすら思っている。
久しぶりに見たは眩しくなっていた。久しぶりにに名前を呼ばれて、一人は自分の名前をちゃんと思い出せた。の声を聞いて耳に馴染んだ音を懐かしく思い、眩しくなったの笑顔が曇らないようにと願う。
が自分を置いて行ったことは少しばかり憎く思うけれど、やはり好いた女性には笑っていてほしい。どうかそのまま、今後もこうやって笑いかけてほしい。

が村に戻っている間に何度か見かけて、以前よりも笑うようになったと思った。
自分と話しているときも笑ってくれていたが、村の人たちといるときも笑う頻度が増えたように見受けられる。

「……よく笑うように、なった」

いいことだと思う。は笑っているほうが、いい。特に自分のせいで泣かせてしまったので、一人はがまた笑えているならそれでいいとは、思えた。
それが、村を出たからなのか、一人は見当がつかない。

(村に縛りつけるべきでは、ないのだろうな)

例え掟の定めた許嫁のような人でも、今の時代にそんなことで縛りつけるべきではないだろう。こうやっての笑顔が増えたのを見ると、余計そう思ってしまう。
結婚したいのは掟もあれど、一人のワガママだ。に傍にいてほしいという気持ちだけで、の人生を全て奪うのは憚られた。
村や掟に縛りつけての笑顔を奪うなら、一人が自分自身を許せなくなりそうだった。には笑っていてほしい。今の笑顔をそのままに、健やかに過ごしてほしかった。

(……健やかに、過ごしてくれれば……)

がそれで、幸せならば。
自分は一生ひとりきりだとしても。

「――諦めることは、できないが」

が幸せならば良いとは思うが、それでもやはりが傍にいてくれればと願ってしまう。掟で定められた相手がで良かったと、一人は思っているのだ。
がもしもちゃんと村に戻ってきて、可能であるならばとは結婚したい。傍にいてほしいと願う大事な人を、ずっと守れる立ち位置が欲しい。高校生の頃のような立ち回りではなく、堂々と彼女を隣に置き、自分が矢面に立てるような、そんな立場が欲しかった。それが一人の一方通行だとしても、を縛りつけるとしてもだ。一人の人生で初めてこんなにも求めてしまった人だから。

だけれど、このときはまだ手放せるつもりでいた。が本気で村を出るなら、が認める伴侶ができたなら、諦められると、そう思っていた。
十年以上の月日を経て、それでもが変わらずにいるせいで、一人はどんどん諦めきれなくなっていく。笑いかけてくれることも変わらず、名前を呼ぶことも変わらない。のまま、この関係も変わらないまま。
他人には絶対に見せられないドロドロとした感情が数年単位で降り積もり、いつしか孕ませてしまえば隣にいてくれるのでは――と、考えてしまうようになる。

(……そもそも、が村を出るときのアレは、そういうつもりもあったのだろうな)

しばらく経ってから一人は自分の行動をそう分析していた。いっそ自分が孕ませてしまえばが村を出なくなるのではないかと、多分そう思っていた節がある。本当に男として最低だと自分で思っているが、あのときはだいぶ精神的にも落ち込んでいたのでほとんど無意識でもあった。それでも女性のに酷いことをしているので、自分から何かを言うことができない。謝れたら良かったのだが、があの夜のことをなかったことにしたいのだったら、一人から何かを言うことは藪蛇だとも思われた。そのせいでもしもが離れてしまったらと思うとまた身動きができなくなる。
には幸せになってほしいし、笑顔でいてほしい。その上で、可能であれば自分の隣にいてほしい。
けれども、村を出てからのほうが笑顔が増えたを見て、一人は自分が何か行動するのは悪手のようにも思えた。村に居続けるしかない自分とは違って、には選択肢があってもいいと、一人は思う。
そうやって考えるようになって、一人はに対してできることがどんどん少なくなっていってしまった。
富永が村にやってきてからどうにか接点を増やそうとしたが、それでもままならないまま時間だけが経っていってしまい余計動けなくなって、後々後悔することになる。