あんな物を渡すだけなのに、こんなにも余裕が無くなるなんて思わなかった。
鷹はいつもの通り昼休みに図書室へ行って本を借りて、自分のクラスまでの帰り道である廊下を歩いていた。
最近ミステリーや謎解きに興味を持ったので、その分類の棚で良さそうなのを抜き出した。短くもないが長くもない。文章も好みだったが、本の装丁も中々自分の中では好印象だった。読むのがちょっとだけ楽しみになるような、そんな本。
だったのに。
昨日彼女が居ない間に物色して、これにしようと心に決めて今日借りたというのに、そんなこと今はもうどうでも良くなっていた。
あんなチンケな物をただ手渡すだけなのに、今まだ自分の心臓が少し早い。信じられなかった。毎日走りこみもアメフトの練習もしているのに、あの程度のことで心臓が鼓動を速める。もっとスマートに渡せなかったのか。今はそう考え始める。行き成り喋りかけて、絆創膏を渡して、…驚かせたに違いない。
それでも笑顔で受け取ってくれたのには救われた。
(………それに)
鷹は本を持っていない片側の手で口元を思わず隠していた。顔が熱い気がするのは、多分気のせいじゃない。目線も顔も上げられない。恥ずかしかった。足元を見ながら歩いてしまう。自分の足が動けば廊下に映る影も同じように同じタイミングで動く。それを目で確認しながらも、それ以上のことは考えられなかった。
いつもの通り借りたい本を手渡して、作業をしているのを見つめていた。
この間は指先にうっすらと傷ができていた。今日は、指の甲にはっきりと傷ができている。今回のは多分、あかぎれとかそういうのだろう。幾らなんでも紙で手の甲側に傷が付くとは思えなかった。傷を認識して直ぐに、鷹はこの間保健室から用もないのに絆創膏を貰って、ポケットに入れているのを思い出す。
その間に作業は終わっていた。いつものように、静かな声で期限は1週間後ということを伝えながら本を返された。
いつもならぶっきら棒に返事をして、そのままクラスに戻るだけだった。
今日は、自分からそのいつも通りを壊した。
「…あの」
「はい?」
声をかければ、穏やかに反応してくれた。身長差もあるけれど、今はそれ以上に座っている彼女との差がある。きちんと自分の顔を見て返事をしてくれる彼女は偉いと何故だか鷹は思った。ちょっと、ジッと見られるのは恥ずかしい。
さっさと渡そう。そう思ってポケットから目的の物を取り出す。
案の定、彼女は驚いた顔をしていた。当たり前か。ただの図書室利用者がこんなもの行き成り渡してきたら確かに驚く。
「…貰ったやつが余ってた…ので、使ってください」
「え、でも私別に怪我とかは…」
「…?」
そう言われて不思議に思う。彼女の綺麗なその指についている傷は、違うのだろうか。地味に痛そうなのだけれど。
「……指…」
言葉がもの凄く足りないその発言でも、彼女は気付いたようだった。ちょっとだけ目を開いてまた絆創膏を見た。
…余計なお世話って、こういうことを言うのだろうか。自分の行動が彼女にとってどう思われるのは考えると少しだけ怖く思えた。個人的には善意でやってるつもりなのだが、得体の知れない男からこんな物差し出されたらどう思うのかなんて、考えたくなかった。不審がられて変な目で見られていないだけまだ良い。
「…要らなかったら、捨てても良いです」
彼女にとっての逃げ道を、自分から言葉で示してみた。
とりあえず渡すだけ渡したかった。その後は、こんな絆創膏の運命はどうでも良い。彼女にとって自分が何かをできたかどうかが、今の自分には問題だった。役に立てたら個人的に嬉しい。迷惑だと思ったのなら勝手にコレを捨てるだの何だの、それでも良かった。自己満足の領域でしかない。
…けれども、彼女は優しい部類の人間のようだ。
「ううん。保健室にでも行って貰おうかと思ってたから、丁度良かったよ。ありがたく使わせていただきます」
自分の手から絆創膏を受け取り、そう言う。傷の付いた指が、自分の絆創膏を掴んでいる。
座ってる上に、元々の身長差があるのに彼女は顔をきちんと上げて視線を合わせてくる。彼女を好ましいと思うことはあって、綺麗だの可愛いだの思ったことは多分無かった。けれど今の先輩は、そういう綺麗だの可愛いだのという部類な気がした。何と言うか、好ましいという言葉しか出てこないが、多分言うなら「綺麗で可愛らしい」のだと思う。
その後の発言で、そういう考えも全て吹っ飛んで言ったけれど。
「ありがとうね、本庄くん」
一瞬本当に頭が真っ白になった。彼女は、今何と言っただろうか。
頭の中では何を言われたのか解っているはずなのに、何故か考えられなかった。反応しないのは失礼だと思ったせいか、いつものようなぶっきら棒の発言は辛うじて出てきてくれた。もっと気の利いたようなことが出てこないのかとクラスに帰ってから思うが、今はこの現状に何とか付いていくので精一杯だ。精一杯の発言がたったの一言だった。
「…………………いえ、…」
目元を赤くしながら、鷹は自分のクラスへ向かう。ああ、熱い。
だって、まさか自分の名前を知ってるとは思わなかったから。
「ありがとうね、本庄くん」そう言われたのをまた思い出した。貸し出しの際に出てくる名前を見たのだろうか。それを、覚えたのだろうか。自分の名前を。本庄鷹という、自分の名前を覚えてくれた。図書委員だから?自分が常連だから?理由はどうでも良かった。覚えてくれて言ってくれただけで嬉しい。
もっとスマートに渡せなかったのかと思う。ただの絆創膏一つ渡すだけで、こんなにもドキドキして俯き加減になる。スポーツに関してだったらそんなことなるはずもないのに。大和だったら、どんなことにでも自信満々に向かうのだろう。意外と自分はただのヒトだったようだ。
でも、今はそんなことよりも、図書委員のあの先輩が自分の名前を呼んでくれたことしか考えられなかった。ああ、もう。こんな些細なことで幸せになれることが世の中にはあるのだ。今なら甘ったるいラブロマンスの小説に出てくる登場人物の気持ちがよく解る。これは確かに、嬉しい。
口が少しへの字になりながら、顔は赤くなっているのだろう。ポーカーフェイスはそこそこできるつもりだったが、今は感情を表に出さないことがとても難しい。
(ああ、どうしよう)
次に図書室行くときは何を借りようとか、もしも話せたら何か話したいとか、思うことは沢山あったけれど、ぽんぽんそんな考えが出てきて直ぐに消えていく。きちんと正常に考えられなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、顔は熱いし口はにやけたりへの字になったり忙しない。
ああ、本当に顔が熱い。
気付いたら鷹はクラスに着いて、自分の席に座っていた。こんなにも充実した昼休みは、無いかもしれない。次の授業の準備をしながら思わずそんなことを考えていた。