週2回先輩を見るためだけに、関わるためだけに、毎日図書室へ行く。そんな生活を繰り返して、先輩の名前を知りたいと思いながら生活をしていて。
焦ってるわけでもなかったけど、やっぱり知りたいと思って過ごしていた。そもそも相手は自分の名前を知っているのに自分が知らないというのは失礼な気がした。
「さん」
図書室で、借りたい本を探していたとき。
いつもの司書の人の声だった。普通の、言っては悪いがおばさんの声。呼んだ相手は、いつも静かに受付テーブルに座っているあの人だった。
あの先輩に向かって、司書の人が声を、かけていた。
仕事に関してなのか、小声で話をし始める二人。一言二言三言、言葉を交わして先輩は「はい、解りました」と頷きながら返事をしていた。図書室での会話は常識的に考えて小さな声になる。話の内容は聞こえなかった。先輩の返事と、司書の人の最初のあの呼び声。それと。
「頼んでごめんなさいね。じゃあ、よろしくね、さん」
…もう一回、先輩の名字を、呼ぶ司書の人。今まで何の感情も沸かなかった先生だが、今始めて尊敬というか、敬愛というか、そういう感情が渦巻いた。というか感謝の念しかない。どうしよう、恩師と勝手に呼んでも良いかもしれない。それくらい、嬉しい出来事だった。ああ、そうか。…先輩の、名字。
自分はとてつもなくラッキーだ。司書の人が言っていた先輩の名字を、頭の中で何度も繰り返した。
(…先輩)
先輩、先輩、先輩。
何度も何度も頭の中で呪文のように唱える。次に逢ったとき、上手く言えるように。大事なものだと主張するかのように、何度も何度も、頭の中で繰り返す。
(先輩)
本棚の前で、顔が緩むのが解った。女子の名字を知っただけで何故にこんなにも気持ちが高ぶるのか。重症かもしれない。
これでやっと、先輩の…正確には名字だが、けれどもやっと名前を呼んで話ができる。名前すら知らないで話をしていた妙な罪悪感が多分なくなるのだろう。ああ、早く呼んでみたい。呼んでみて始めて、自分の中で先輩の名字だと落ち着くのだろう。今はまだ頭の中で反芻するだけでふわふわしている状態だった。早く、言ってみたい。呼んでみたい。先輩のその、名字を。
けれどもその日はおろか、しばらく先輩のソレを呼ぶことはなかった。
(普段の会話で、先輩の名前を呼ぶ場面が、…ない…)