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後悔していた。

名前も書かずに、ただ自分の気持ちを書いただけで終わってしまった、あの行動に、鷹は随分後悔していた。
多分先輩が他の男と歩いている姿を見なければ、それでもその行動は自分の中である程度意味のあるものになっていただろうに、あの日あの場面を見て、鷹は後悔しかなかった。
電車の中で一緒に帰ったときや、他にもたくさん先輩のことを聞く機会はあったのに、彼氏がいることや、名前のこと、他にも沢山、聞いておけば良かったことが山ほどあった。未だに自分は先輩の名前も知らないし(そもそも名字を知ったのも司書さんが呼んでいたのを聞いただけだ)、先輩が好きな本やものなんかも、よく解らない。今読んでいるシリーズも聞いていないから知らない。教えてくれるだろうけれど、自分はそういうことを全く聞かないのだ。

それは自分たちがよく逢う場所が図書室という場なせいか、あまり長く話す所ではないからということも、あるのかもしれないけれど。
それでも自分はやはり話術が上手くない。どう聞けば良いのか解らないし、それを聞いて良いのかも皆目見当がつかない。

後悔ばかりだった。特にノートに告白したとき、自分の名前を書かなかったことが、やっぱり一番後悔していた。



***



「詠んだときの字面と、訳とだと印象が違うんで、どれにしようか迷っているんですよね」
「ああ、なるほど」

百人一首のレポート。勘で一首を決めて書いても別に良いのだが、それでもある程度自分の中で理由をつけなければいけない。
字面で良いなと思っても、訳が思ってたのと違うということは、古典でも漢文でもよくあることだとは思う。特に和歌ともなると、漢文を遥かに凌ぐほどだと鷹は感じていた。こればかりは語彙力がないとどうにもできないように思う。一年の自分では無理ではないだろうか。
百人一首は恋の歌が多い。この時代的にそれはしょうがないけれど、浮気を嘆く歌も多いので見ていて全部が気持ちの良いものでもない。
自分の気持ちに近いものも、あるのだけれど。だからと言ってそれを取り上げるわけにもいかない。

「でも、先輩の言っていた作者から決めて選ぶのも手ですよね」
「私は確かそうした気がするんだよねー…。ある程度作者のことも書かなきゃいけないから、そこを埋められる程度の資料が図書室にある人でーって感じ」

パラパラと本をめくりながら、先輩は苦笑しながら言う。本当は、そういうのじゃいけないんだろうけどねと続けた。
別に、そういう風に課題をこなすのも技ではあると思うのだけれど。後輩にそういうことを言うのは微妙なのだろうか。
先輩のノートを見たり、資料を見たり、そうしていたら司書さんが近づいてきていた。

さんごめんね、ちょっとだけ良いかしら」
「はい?」

当番でもないのにごめんなさいねと、付け加えながら司書さんは先輩に話しかける。
司書さんに申し訳ない顔で頭を下げられたので、自分も社交辞令のように会釈をした。知り合いや先輩のクラスの人が話しかけてきたらまた別だけれど、司書の人が仕事のことで話しかけるのは別に良いしこちらもあまり迷惑にはならない。
カウンターのことらしく、先輩は「ちょっと行って来るね」と声をかけて席を立った。

(…信頼されてる、のかな)

当番でもないのにこうやって図書委員のことで話しかけられるということは、そういうことだろう。信頼も人望もあるからああやって頼むのだろうし。
ちょっと自分の部活とは違う雰囲気なように感じる。信用と信頼とは違うのだろうし、繋がり方も違うからだろうか。
百人一首のことも考えてはいるけれど、どうにも先輩のことも考えてしまう。…これはもしかして、末期というものだろうか。こんなことでどうするのだずっと片想いというのが決定しているのに。

(…というか、彼氏がいるのにこうやって二人きりみたいなことを提案してくる時点で意識されてないような…)

考えれば考えた分、深みに落ちる音がする。多分効果音はぐるぐる。
正に頭の中は先輩のことでいっぱいだった。

(……駄目だきちんと宿題やらなきゃ)

じゃないと先輩に失礼だと自分を律して、シャーペンを握りなおした。せめて良い子だとは思われたい。というか、良い印象で関わっていたい。

先輩が司書の人と一緒にカウンターに入り、そのまま裏の倉庫…書庫?のような所に入っていったのを横目で見えた。
先輩の姿はこちらからは見えないし、多分先輩もこちらの姿は見えない。

資料をパラパラ流し読みしながら、鷹は先輩の傍にあったノートへと視線を1回だけ向けた。
そのノートを見ながら、先輩がまだ書庫から出てこないのも横目で見ていた。



***



「何かプリントとか見て終わっちゃったね、ごめんね」

先輩が戻ってきてからも授業のことや先生の点数付けの話を聞いていたら、直ぐに下校時刻になってしまった。
下校を知らせるチャイムを聞いて、慌てて図書室を二人で退出する。校内はもう暗くて、人も少なかった。

図書室にいる間ちょっとだけ、話を長引かせていたことは多分先輩は気づかない。そういうことは別に気づかなくて良いと鷹は思っている。
謝る先輩に対して、別に構わないと極当たり前のことを言う。何となくの方向性は見えたし、何よりもわざわざプリントもノートも持ってきてもらっているのに、先輩に対して謝ってほしいという感情は沸いてこない。

「…あ、そうだこの間先輩が読んでた、あの百人一首の漫画はあるんですか?」
「あー!アレね。そうだアレ見せれば良かったねえ。あの本に載ってる訳面白いよ」

私去年の課題出たときにあの本出てたら、もっと楽だったと思う。そう先輩は続けたので、鷹は余計興味が沸いた。

「図書室にあるんですよね?この間ちょっと探したんですけど、どこの棚にあるんですか?」
「あれ、なかった?一応古典の棚には入ってるはずだけど…。明日、探してみるよ」
「…良いんですか?すいません」

先輩との約束ができるなら、甘えてしまう癖が付いてしまった。これは後で自分が辛いだけかもしれない。
それでも良いと、思ってしまっている自分が、いた。

「明日は昼休み来れる?先に来て探しとくね」
「あ、いや、明日はミーティングだけなんで、ええと、昼休みも来ますけど放課後も、多分図書室閉まる前には来れます」
「おー、何か珍しいね。そっか」

試合前になるとミーティングも増える。正直必要ないし、出なくても良いと鷹は思っているが元来の性格なのか嫌々ながらもきちんと毎回出ている。あと大和がうるさい。
更に正直な話、ミーティングに出ないでまた放課後に図書室へ行っても良いと思っているのだが、それは先輩が止めそうなので言うのもやるのも止めておいた。多分自分のその判断は正しい。

「昼休みは受付しながらだから、放課後まで待ってもらえると確かに助かるかな。放課後、面倒くさいかもしれないけど興味があるなら来てみてよ」
「はい。…終わったら、行きます」
「うん」

電車に乗って別れるまでは、先輩を独占できた。明日も、多分帰りは先輩と一緒に帰れる。その間だけは、先輩を独占できる。
その程度の、短い幸せ。それでも確かに、鷹にとってはとても眩しくて甘美な、それ。
その程度の幸せで満足して、自分の行動には後悔して、その自分勝手さを鷹は後で嘆いた。