18


どれだけの背中を撫で続けたか解らない。時間の感覚がなかった。長いようで短くも感じる。
触れているの体温が、心地いい。

「ぐす、」
「……」
「ごめ、……顔洗ってくる……」
「解った」

泣き止まないの背中を、一人はずっと撫で続けた。少し落ち着いたと思ったら、がそう言って立ち上がる。止める理由もないので見送ったが、ほんの少しだけ座りが悪い。

(……よく考えたら窓から入ってそのままだな……)

マントも羽織ったままだし、靴は縁側に置いてある。とりあえず一人はマントを脱いで畳み、靴を持ってきて玄関に置かせてもらった。部屋に戻ってきてまた座るが、何とも手持ち無沙汰だった。こんなにもソワソワすることは早々ない。

「……」

待てど暮らせどが戻ってこないので、一人は時計を見てしまう。思ったよりも進んではいないが、それでも十分以上過ぎており、が戻ってこないのが疑問だった。顔を洗う程度にそこまで時間がかかるのかと思ってしまう。女性は支度に時間がかかるという、その類だろうか。
立ち上がって洗面所に向かえば、物音もしない。声をかけようか迷えば、扉越しに小さくだがの泣き声が聞こえた。
思わずノックもせずにドアを開けてしまう。洗面台の前で蹲って、泣いているが目に飛び込む。いきなりドアが開いたのでは驚いていたが、泣き続けていたのか目が真っ赤だった。

「か、ずと……」
「……何も、ひとりで泣かないでもいいだろう」
「う、ごめ……、ぅ、あの、も、もう泣き止むから」
「……、触るぞ」
「え、えっ? わっ」
「掴まってろ」

を無理矢理抱き上げて、元の部屋に戻る。横抱きにされたが何か言っていたが、聞こえないフリをした。
一人はを抱き上げたまま部屋の中で座る。驚きすぎたのかの涙は少し止まっていた。

「泣き止むまで付き合うと言っただろう。……俺がいるのに、ひとりで泣くな」
「う、ぅ、でも、……う、ぐすっ。……な、何か……、止まらなく、て」
「無理に泣き止めとは言っていない。俺がいるのにひとりで泣かれているほうが、困る」
「っ……う、……うぅ……」

心配になるほど泣いているが、感極まって泣いているのなら止める必要もないと一人は思う。それよりも傍にいるのに頼られないことのほうが嫌だった。
が「でも、」と口を開いた。

「か、顔が、ひどくて」
「……?」
「化粧、落ちてるし、う~~、は、鼻水が」
「泣いているんだから、そうはなるだろう」
「……ばかずと!!」
「何故急に罵倒になる……」

しかも意味の解らない単語を作られている。馬鹿と言ってくるのはくらいなので正直新鮮にも感じる。罵倒なのだが。
フォローしたつもりだったのにが何故怒っているのか一人は解らない。

「どうせ、化粧してもあんまり、変わらないけど、う、ぐす」
「……そういう機微を俺に求めないでくれ」
「なにそれ……」
「化粧をしているかどうかは解るが、良し悪しは何も解らんし興味がない」
「……朴念仁……」
「…………、――いや、待て、それはつまり俺の前だから化粧をしていたと取るぞ」
「!」

不愛想なのは自覚しているが、この流れでその単語を言われたら、こうやって受け取るしかない。
富永が来てから化粧をしたり肌が見える服を着るようになったと思っていたが、自分の勘違いだったのか。朴念仁と言われてもしょうがないのかもしれない。
女性のそういう機微は解らないが、が自分の前で着飾っていると言うのなら、それは素直に嬉しく思う。気づかなかったせいで傷つけていたのなら、罵倒されるのも止む無しである。それに関しては一人自身機微がないと思っているし、好みというものもない。が自分のためにやっていることだけが嬉しいと感じる。似合うかどうか聞かれても多分困るとは思うが、比較はできるので次があったらちゃんと自分の意見は言おうと思った。

「……」

は黙ってしまって縮こまり始めた。俯いてしまって顔が見えない。
そうなる前に一瞬見えたの顔は、真っ赤に染まって眉が下がり、困った表情だった。
一人はの背中を軽く叩いたり撫でたりしていく。

「少しは泣き止んだか」
「…………うるさいばかずと…………」
「小声で罵倒するな」

が鼻をすする音が聞こえる。一人の足の間で、は体育座りをしながら縮こまっていた。スカートがめくれないように祈るしかない。高校生の頃にのスカートの下が見えただけで興奮していたので、正直足が少しでも見えると目に悪い。未だに思い出す程度に当時の一人には刺激が強かった。
洗面所で使っていたタオルをそのまま、は顔を隠すために使っている。すんすんと鼻を鳴らしているが、そろそろ涙は出てこないようだった。こんなに泣けるものなのか、とそっちに気を取られる。
落ち着いてきたのか、の顔が少し上がる。視線が、合った。

「止まったか?」
「…………ぅ……」
「……」

自分の顔を見てまた泣き始めるのは流石に何も言えなくなる。感極まってると思いたいが、違ったら下手に口を開けない。
いっそ喋りかけたほうがいいのかもしれないと方向転換し始めた。

「俺がこうやって触るのは、大丈夫か」
「う、ぇ? ……一人に触られるのは、平気」
「……そうか」

去年も聞いたことだが、自分が言わせたような気もしたのでちゃんと平気だと言われると安心できる。
肩を抱くのは平気なのだろうか。自分に寄りかからせても大丈夫か。
これを本人に聞いてもいいものなのかが一人は解らない。一度言質を取ってしまったら、自分はそれに甘えてしまう気もしている。けれどもの気持ちを知った今、近づかずに我慢をし続けることは、もう堪えられないとも思う。

、嫌だったら本気で殴れ」
「は」

の肩を抱いて自分に引き寄せる。寄りかからせて、頭を撫でた。
自分よりも小さくて細いのは解っていたが、いざちゃんと抱きしめるとそれが顕著に解る。何でこれで十代の頃に男たちとやり合えたのか解らない。一人自身が日本人の平均よりも全てが上なのもあるが、それにしても自分と比べるとが細すぎて心配にもなる。実際食べる量が全く違うので納得もするが、小さい子どもを見るときとはまた違った加護欲が出てくる。

「……」

は何も言わなかった。動きもしないので少し心配にもなる。

?」
「ぅえっ、な、なに」
「……大丈夫か」
「なにが、えっ?」
「嫌だったら殴れ」
「……え、……あ、うん。うん?」
「…………大丈夫か」

自分の行動がそんなに混乱させるほどなのか。会話ができているのか若干怪しい。泣き疲れて眠いのだろうか。

「だ、だいじょう、ぶ、じゃない」
「それは、……どういう意味だ」
「あ、汗臭いから、離して……」

思ったのと違う方向に嫌がられて少しだけホッとする。別に気にならないので離す必要はないと判断した。

「一人、あの、は、離して……」

おろおろしながらは無理矢理立ち上がろうともしない。の顔がどんどん赤くなっているのが解る。
肩を抱いての顔を覗きこめば、目が合う。
こんな近さで顔を見るのは初めてかもしれない。を抱いたときですら、終ぞが起きている間にキスはできなかった。目を逸らしたくなるほど顔が近いのに、逸らすのは勿体ない。の匂いもする。そういえば抱いたときもこんな匂いだった、と思い返した。

「……」

嫌だったら殴れと言ってある。けれどもが、逃げないだろうとも解る。逃げ場を封じているのも大きいかもしれない。が本気で嫌がらない限りは、多分もう逃がしてやれないと一人は思う。
一人は目線を逸らさないが、は色んな場所に目が動いていた。それでも顔は動かないので、一人は距離を詰める。

「――か、」

が名前を呼ぼうとしたのが解ったけれど、それよりも先に唇が触れた。
息継ぎよりも先に唇を離したが、どうせならもっと堪能したい。の反応次第だが、どうだろうかと顔を離して見れば、の顔が信じられないほど赤くなっていた。

「……っ、か、か、――顔洗ってくる!!」
「な、んでだ……。待て、

が立ち上がろうとするので無理矢理押しとどめた。そんなに嫌だったのか。ショックとしか言いようがない。変な汗をかきはじめた。
がまた少し泣き始めたので本格的に焦る。そんなにか。嫌だったのか。

「だって顔酷いのに!」
「化粧が落ちているだけだろう」
「わた、わたし初めてだったのに!!」
「そ……うなのか」

抱いた夜、の意識がなくなったあとに一人が触れているのだが、それを知らないならにとって本当に初めてなのだろう。妙な動悸がし始めた。自分以外の男を知らないと言われて、正直に嬉しいと思える。笑いそうになってしまうが、何とか緩む口元を引き締めた。
が真っ赤な顔のまま、困った顔でまた縮こまる。今度は体育座りして自分の膝に顔を埋めて何も見えなくなってしまった。の背中を撫でて何とかなだめようとするが、が全く動かない。

すまん。仕切り直させてくれ」
「……酷い顔してるからやだ……」
「それは顔を整えたらいいのだと、俺は認識するぞ」
「……!」

思わずなのかが顔を上げてこちらを見た。目が赤いくらいで別にいつもと変わらないと一人は思う。やはり化粧をしてる・していないくらいしか解らず、女性のそういう機微を理解できる日が来ることはないかもしれない。

「そうじゃないのか。顔が気にならなくなったら、いいのだろう」
「……ば、ばかずと……!!」
「違うのか」
「……! ……!!」

言葉が出ないようだった。図星らしい。嫌がっているわけではないのが解って、顔には出さないが一人は心の中でホッとする。あまりこちらから突き進んでが結局逃げるようなことになっても困る。逃がしたくないから譲歩してるだけで、この十年以上降り積もっている欲求はできれば早めに発散させていきたい。
の肩をまた抱きしめて顔を覗き込めば、途端に勢いがなくなってしまった。口を開きはしても言葉が出てこないらしい。
汗の匂いは気にならないし、別に顔も洗ったのならそこまで酷いものでもない。泣き顔はこんなものだろう。
がいいなら、もう少しだけ続きがしたい。

、嫌だったか?」
「……ズルい言い方しないで」
「ズルいか」
「ズルい……」
「だが俺は何も気にならないいし、がいいならもう少し続きがしたい」
「……つ、つづき……!?」
「ああ」
「ど、どこまで」
「……、…………いいなら全部したいが」
「そっ、なん、何、言って」
「お前が聞いたんだろう」
「だ、だって。あの、え、え? ぜ、全部って、えっ?」

こんなに顔が赤いままでいられるのか、と一人は観察してしまう。泣きっぱなしだったのも驚いたが、赤面がここまで続くのも中々見られるものでもない。

がいいなら、だが」
「…………」

困った顔をしているを見ていると少し落ち着いてくる。断られてもこの様子なら絆されそうでもあるのが大きい。ずっと待っていた人なので、許可さえもらえればもう遠慮はしない。どうか許してほしいと思うし、けれどもが嫌がるならまだもう少し待つこともできる。
の目が、揺れているのが見える。

「か、顔が酷いのに」
「別に酷くはないが」
「うそ、絶対酷い顔してる」
「俺は気にならない」

とまた目が合う。しっかりと見つめれば目線が止まり、やはり困った顔をして音もなく口が閉じたり開いたりする。

「……嫌か?」

ズルい言い方だと言われたのに、また聞いてしまった。無理矢理でない限り、嫌ならちゃんと嫌だと言うのが解っているからこんな聞き方になってしまう。どう聞けばいいかも思い浮かばなかったからだが、結局に甘えてこんな聞き方になっている部分もあった。がこの調子なら了承するのが解ってしまうのは、やはり年月を重ねているからだろう。

「ズルい言い方ばっかり」
「ああ、悪い」

涙目で困った顔をし、顔を赤くしているを眺めながら、一人はこの瞬間自分が医者なのを忘れることができている。富永が村にいるからも大きいけれど、それでも自分が今ただの人間で、の前にいるだけになっていた。
これからもっとその瞬間が増える。の前でなら、ただの人間にもなれる。

恥ずかし気に目を伏せ、「一人なら嫌じゃない」と言うにまた顔を寄せた。